今は日本においても世界においても、人類やひいては地球の未来を脅かすような問題が生じています。例えば、些細な金額のための強盗殺人や、自分の思いを通すためだけのストーカー殺人など、自分の欲望を満たすための殺人や凶悪な犯罪が増えています。また、原子力発電の問題では、企業や自治体、国家が経済的利益や権益のみを優先すれば、地球上の生命を脅かす事態になりかねません。そこには、「自分だけ」「自分たちだけ」が良ければいいといった心のあり方が垣間見えます。また、国家権力が自国の利益だけを最優先にすると、国際社会において問題が生じます。環境問題全体も、人類そのものが、自分たちだけが良ければいいと考えていることが根本の原因なのではないでしょうか。このように、個人のレベルにおいても、集団のレベルにおいても、人類と言うレベルにおいても、「自分だけが良ければ」という心は様々な問題を起こします。それは、それぞれのレベルにおける個人性の肥大化とでも言うべきものでしょう。 一方、私たち日本人はかつて全体主義の社会を経験しました。そして、全体主義の問題は現在でもこの地球上に起こっています。そこでは、個人の基本的人権が踏みにじられ、企業の自由な活動は認められず、自由に政治的な主張をすることは認められていません。また、現代の日本においても、集団の利益が優先され、個人の人権がおろそかにされるという問題は、様々な場面において見られます。そこではひとりひとりの存在は軽視され、心は無視されています。それは、社会性の肥大化とでも言うべきものでしょう。 上記のように、個人性の肥大化も社会性の肥大化も心のあり方の問題として捉えることができます。一般に、個人性と社会性は対立した概念であると思われがちですが、心のあり方という切り口から同じ地平で考えることができるのではないでしょうか。 私たちは、この個人性と社会性の調和という問題に対して、霊性(スピリチュアリティ)という側面からアプローチすることができるでしょう。倫理や共感、共生は心の奥から生じるものであり、まさにそれが霊性(スピリチュアリティ)と呼ばれる領域だからです。 このシンポジウムでは、宗教家、宗教学者、医学者、哲学者、経営者の方々に、それぞれの立場でこの問題について講演していただき、その後に、全員による討論を行います。その中から、私たちの個人のあり方と社会のあり方についての示唆を得て、個人の幸福と、社会の発展と調和が両立するより良い地球社会への方向性を見出したいと考えています。
現職:
慶應義塾大学文学部准教授
略歴:
1963年富山生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科宗教学・宗教史学専攻博士課程修了。
早稲田大学・東京外国語大学助手、フランス国立高等研究院客員教授などを経て現職。
宗教学専攻
止観と内丹法を中心に瞑想実践を行いながら、比較瞑想論と宗教間対話論の研究に専心。
著書:
『スピリチュアリティ革命』(春秋社)
『スピリチュアル・ライフのすすめ』(文藝春秋)
『文化と霊性』(編著、慶應義塾大学出版会)
『人間に魂はあるか?-本山博の学問と実践』(共編、国書刊行会)など。
ホームページ :
樫尾直樹Labo http://kashio.spinavi.net/
聞き手 IARP 本部長 本山一博(2013・9・28 IARP本部にて)
本部長:
個人と社会をつなぐものが霊性である、というとらえ方について、樫尾先生が考える霊性・スピリチュアリティとはどんなものでしょうか。樫尾先生:
そもそも個的な次元と集合的な次元というのを分けるということは、常識的な人間の認識のあり方なのですね。それは人間は視覚が優先されているからですよね、物理的に分かれているから。絆とか社会的紐帯というのは不可視なものなのですよね。でも、人間の個的な次元を超えた或る高い価値を讃えるとか、称揚するとか、というこの行為自体は、ここで言うところの霊性とかスピリチュアリティを考えようとするときの、一番最初のステップにあるのかな、というふうに思うわけです。本部長:
本山会長は、宗教的な場面における宗教的な行為によって霊性が磨かれると社会性ができてくるということに軸足を置かれています。しかし、今の話はどちらかというと社会性に目を向けるとそれによって霊性の入り口がみえてくるという発想で、逆方向といえば逆方向なのですね。樫尾先生:
両方のベクトルがあるのではないですかね。本部長:
今の話とメインテーマである「新しい地球社会の新しいビジョン」とどうつながりますか。樫尾先生:
霊性を考えるときに、宗教的・超越的次元から世俗的な次元に向けるベクトルと、逆のベクトルがあると、それは両方大事なのです。ただ、こういうようなテーマの設定からすると、やはり世俗社会の側から霊性・スピリチュアリティをどういうふうに考えられるのか、という発想というのは非常に重要な、おそらく多くの市井の人にとっては重要なことなのかなと思うわけです。たとえば、スピリチュアリティな社会的な次元というのを、私たちは日常生活の次元の中で、どんな場面で感じるかというと、電車の中で席を譲ったりとか、倒れている人を介抱するとか、というような利他的な行為ですよね。自分自身の存在を犠牲にして利他的な行為を行う、という自己否定的な行為というのが他者との見えない絆を感じ、実践することが非常に重要なものになってくるのではないかと思います。
それは正に日常生活の中における霊性ということになってくると思うのです。そういうことからすると、ここで言っている「新しい地球社会のビジョン」については、今言ったように、自己犠牲をして利他的な行為を積み重ねていくことによって、他者に対する敬意であるとか、他者と自分とが普段は関係があまりみえないのだけれども、実はみえないレベルにおいて結びついているのだという、非常に深いレベルでの社会的な紐帯を意識するということとどんどんつながっていくと思うのです。そういう人たちが増えていくということが、一つの地球社会のビジョン─それは世界平和といってもいいと思うけれども─なのだと思います。
同じ一つの地球社会の中で生きている人たちが、文化も違っているし、様々な差異があるにしても、利他的な行動様式に基づいて、目にみえないところで実はつながっているという意識が持てるようになって、それが実践される。それがやはり個人・社会というベクトルの中で、その延長線上の中で考えられる地球社会の非常に重要なビジョンであると思うのです。実はこのイメージというのは新しいことではないと思うのです。けれども、必ずしも実現しているわけではないから、今お話ししているような意味で、これは私たちが追求し実現すべき新しいビジョンだということができると思います。
本部長:
今のお話と、宗教体験から社会性が出てくるということと、その二つのベクトルかなり異なるものなので、その二つのあり方の関係とは宗教学者としてどうごらんになりますか。樫尾先生:
二つの実践の軸があるのだと思うのです。 それはまさに個的な次元での実践と、社会的な次元での実践があると思います。利他行というのは社会的な実践なのですよね。そうしたことを続けていくことによって、実践者が深い利他の意識、自己否定の意識を醸成していくということがあるし、それだけやって行ける人もいると思うのです。一方で、自分が自分一人ではなくていろいろな人と関係を持って、あるいは自分を超えた大いなる偉大なる何者かによって生かされているのだというような感性、意識、心の持ちようは、瞑想などの様々な行によって核となるものが形成されて成長していくのだと思うのです。狭い意味での宗教の役割というのは、そうした瞑想行を人々に伝達・教化することによって、自分の個を破った、自己否定の意識を瞑想によって醸成されていくわけなのだけれども、そういうことを宗教は伝達していくことが一方でありますしね。でもそれと同時に、社会的な場面において利他行を続けていくと、二つの軸があるのではないでしょうか。宗教的実践や瞑想行というのは内在性とか内向性、それに対して利他行と言うのは外在性です。自分を深く掘っていくか、外に開いていくかという、出発点が逆になっている。それがおもしろいことに、自他の区別とか差別がなくなって、或る独特の合一の感覚とか意識が醸成されてくるという点では、その両者の実践の最終的に到達するところは一つで、一致しているのではないかと思っているのです。
重要なのは両方やるということではないかと思うのです。今の社会はどちらかというと、社会的貢献をしましょうということの方が奨励されていますよね。特に3.11以降日本ではそうしたことを実践されてきたわけですし、それがいいことだったわけです。そういうような時代の流れもあって、どちらかというと社会的実践、社会的貢献、利他行をしていくという方がやはり称揚されているという傾向があるのです。
けれども、一方では自分の心を深く掘っていくことによって、自他の境界を超えていくという瞑想行も極めて重要で、それはやはり宗教的な意味合いを除いて、日常生活の中でいろいろな苦難があっても動揺しないで落ち着いた気持ちで穏やかな気持ちで対処していくということが可能になってくるし、リラックスするという効果を持っているので、もう一方の宗教的な行、瞑想行というのも非常に重要で、両方やって一本の縄のように編まれていく、または両輪というのが、ぼくのイメージとしては非常に理想的で、地球社会の新しいビジョンを実現していくという点においては大きなドライブをかけることになるのではないかなと思います。
瞑想行を個人意識的・スピリチュアリティなアプローチ、利他行を社会倫理的なアプローチと分類しているわけです。その両方が非常に重要で、どの宗教でも両方があるのですよね。ただ、宗教によってその比重が違っているのです。
瞑想などの宗教実践において世代的な差とか、宗教的な感性の部分に目をつぶって、それを知ろうとしないとか、とりあえずそういうところを置いといて自分たちがやっていることをすればいいのだというのを、多くの宗教団体がやっているのです。それは必ず衰退していきます。
宗教団体的な壁、バリアをあらかじめとっぱらって宗教が何千年の間保持してきた瞑想という宗教実践を伝統的な脈絡から外に出して、多くの人に伝えていくということが同時に重要なことだと思うのです。それは自分の宗教の伝統的な諸実践を大切にしながらも、それにプラスアルファのことをそれぞれの宗教がやっていかなければいけないし、宗教団体にとってはそういうことが必要になってくるのだろうと思います。
ただ、今の資本社会の中で、こうしたマスメディアが発達した中で、どのような形で伝達し、流通させていくのかという問題、媒介の方法ということが非常に重要です。そこのところは具体的にどのようにしていったらいいのかというのはぼくもちょっとこれだというのはよくわからない。ただ言えるのは、自分たちの宗教伝統と、それにプラスアルファ、他宗教と交流しながらいいところは学び、そういうものを加えながら自分たちの信仰実践のあり方をバージョンアップするというか、再構築していくということが宗教には求められているのです。やるのは難しいと思うのですが、組織だから。でもそれをやらないと結果的には右肩下がりになって滅んでいくことは明らかなのです、どんな宗教でも。
指導者が変われば排他性をあらかじめ排することができるし、他宗教に対する寛容性を涵養していくことは可能だと思うのです。教団というのは指導者のパーソナリティによってあらかたの部分というのは規定されるのだと思います。
本部長:
倫理からスピリチュアリティへ、という道とスピリチュアリティから倫理へという道の両方があった方がいいと、倫理からスピリチュアリティへ、という道は新しい地球社会の中でかなり普遍的にみえるのだけれども、スピリチュアリティつまり本物の宗教実践から自分を高めて倫理に到るのだけれども、本物の宗教実践は非常に固有性 が高くてそれが新しい地球社会に対してどういう形をとっていくのがまだみえていないなという話だったと思うのですが。樫尾先生:
後者に関しては、それぞれの人がそれぞれの特殊な宗教実践に突き進むということではないですか。ただ突き進みながらも、一生懸命やりつつも外を知る、両方ですよね。そのことはやはり指導者が指導しなければならないわけです、宗教団体においては。知りもしないのに排他的になるというのは一番よくないことですよね。そういう複眼的なまなざしがないとカルトになってしまうわけです。あらゆる宗教団体すべてがカルト性を持っているから。両方をやることによって「霊性から倫理へ」というのは可能になってくると思うのです。現職:
慶應義塾大学看護医療学部教授 (慢性病態学、終末期病態学)
略歴:
昭和31年1月29日生
昭和55年8月 慶應義塾大学医学部卒業
昭和56年4月 慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程入学(内科学専攻)
昭和60年7月 医学博士(慶應義塾大学)学位取得
昭和55年10月 慶應義塾大学医学部研修医 (内科)
昭和60年 4月 慶應義塾大学医学部助手 (専修医)
昭和60年 7月 米国ニューヨーク市立大学マウントサイナイ医学部内科 Research fellow, 兼ブロンクス退役軍人 (VA) 病院内科 Resident in Liver Disease and Nutrition
昭和63年12月 慶應義塾大学助手 (医学部内科学)
平成 2年12月 都立広尾病院内科医長, 内視鏡科科長
平成 6年 10月 慶應義塾大学 専任講師 (医学部内科学、消化器内科)
平成17年4月 慶應義塾大学看護医療学部教授(慢性病態学、終末期病態学) 現在に至る
所属学会および研究会関係活動:
日本内科学会(認定医)
日本消化器病学会(学会評議員、指導医、専門医)
日本肝臓学会(東部会評議員、指導医、認定医)
日本アルコール薬物医学会(理事)
アルコール医学生物学研究会(幹事)
東京アルコール臨床懇話会(幹事)
臨床パストラル教育研究センター(理事)
日本実存療法学会(理事)
主な研究課題 :
アルコール性肝障害および薬剤性肝障害の発生機序
患者教育、肝臓病と栄養
肝臓病と運動情報提供とスピリチュアルケア
主な著書 :
『肝臓病教室のすすめ』(メディカルレビュー社 2002年)
『肝臓病生活指導テキスト』(南江堂 2004年 )
『患者の生き方 より良い医療と人生の患者学のすすめ』 (春秋社 2004年)
共著 『患者と作る医学の教科書 (日総研 2009年 )
共著 『宗教と現代がわかる本 2011』 (平凡社 2011年)
ホームページ:
患者のための医療情報リテラシー(MELIT)http://melit.jp/
聞き手 IARP 本部長 本山一博(2013.11.5 慶應大学 信濃町キャンパス 孝養舎にて)
加藤先生:
私は、肝臓を専門とする消化器内科医で、アルコール性肝障害の研究活動を行ってきました。都立広尾病院で、肝臓病の患者をかかえ、慢性肝炎から肝硬変、肝癌になるという進行性の病気であり、新薬や新しい治療法が次々と開発されているので、患者さんがよく理解把握して医療を受ける事が大切と、1992年「肝臓病教室」の開催を始めました。 慶應大学病院に戻ってからも肝臓病教室を続け、その中で、医者が答えるより、経験者が語ることがいい情報になることもたくさんあると、患者さん同士で話し合うグループワークを取り入れました。 1998年頃、大本教が脳死反対運動を始めました。当時、肝臓の生体臓器移植も始まっていて、脳死臓器移植は科学の発展のひとつの過程だと思っていました。自分が生まれた時から信仰している宗教と、大学の中での価値観がもろにぶつかったわけです。どうしようかと思って、脳死に関する論文や文献を集めました。脳死について調べれば調べるほど、専門家が市民をだましながら脳死を認めさせて、世の中に広めようとしている行為であることが、わかりました。脳死を推進する大学病院の中の講師の立場でしたが、自分は脳死反対を表明し、講演したり、論文を書いたりしました。 脳死に反対したことは大きな転機になりました。大本東京本部で行った「脳死は人の死ではない」という講演がきっかけになり、様々なシンポジウムに招かれ、研究会のメンバーに入れられ、宗教学の著名な先生方と出会いました。その中で、医療における霊性を意識し始めるようになりました。 今の医療は、あまりにも科学優先で人間的であることを置き去りにしている。それは大本の言葉でいうと体主霊従。大本は「体主霊従の世の中を霊主体従にしなければならない」という教えです。今の医療は、体主霊従で、それを霊主体従のものに変えることが求められている。患者の人間性―個別性、独自性、相互作用、時間性、歴史性、意味、価値―を大切にすること、それがひとつのスピリチュアリティかなと思い始めました。 多くの先生方との出会いの中で、スピリチュアルケアをされているワルデマール・キッペス神父との運命的な出会いもあり、キッペス先生と出会ってすぐに慶大看護医療学部の教授として慢性病と終末期病を担当することになりました。そして、キッペス先生の主催するドイツホスピス見学ツアーに2回参加しました。 医学部では内科医として臓器別に病気を見ていたのですが、それからは、慢性期や終末期と病期で病気をみる視点を持つことになりました。その中で、患者さんは病気とどのように付き合えばいいのかとか、医療者と患者さんはどういう関係性が望ましいのか、そういう観点で医療をみるようになったのです。 そうこうしている間に、病院の外の患者会ともつながりを持つようになりました。個々の患者会が病気枠を越えて集うネットワーク(VHOネットワーク)にオブザーバー的に参加しました。患者の力を生かして医学教育や医療を変えたいと、患者が主観的にとらえた病気を書いたものを医学生や看護学生の教育に使おうと、『患者と作る医学の教科書』(日総研2009年)をつくりました。患者として社会に働きかける活動をし、皆がとても元気でした。私は病気の反対は元気ではないことを理解しました。慢性病では病気が治せないことが多いのですが、慢性病を抱えていても元気に過ごすことが可能だと知ったのです。自分が病気なのに、他の患者さんのために活動する。そこに生きがいをみつけて、ますます生き生きしているわけです。 患者会のネットワークで活動している間に出会った肺高血圧症の患者さんがいます。あなたはあと2年しか生きられないと10年前に言われていたのです。その患者さんが私のところに相談にきたのです。「あと2年しか生きられない」と言われた時の気持ちを患者さんは皆持っている、そういったものをどうやって振り払う事ができるか、どうやってそこから前向きに生きていけるかを考えたいと。そこで、疾患別ではないグループワークを提案し、「慢性病患者ごった煮会」をつくりました。 その会では、最初に私が説明をして、患者さん同士がグループで話し合うのです。落ち込んでいた患者さんもだんだん元気になってきたのです。いろいろな慢性病の人が集まり、表面的でない話、普段話しにくいことを思いきって話せる場になりました。他の人の話を聴きながら自分自身を見つめられる場になるんですね。あ、あの人もそんなに苦しい時期があったけれど、今あんなに元気になっている、あの人と同じように自分も危機を脱せるかもしれないと感じ、どんなふうに脱したのかを知る事ができるのです。「これはスピリチュアルケアと呼んでもいいのではないか」と思い始めたのです。 スピリチュアルケアというと、一対一で、神父さんが信徒を導くようなかたちだったのですが、日本ではなじみにくい。むしろグループ討議のスピリチュアルケアのシステムを運営する事自体が、ケアに相当するのではないかと、今あちこちで講演しているのです。 私は今、医療における情報提供とスピリチュアルケアを2つの大きなテーマにしています。情報提供は、慢性病で特に大事ですが、終末期でも必要だと。スピリチュアルケアは、終末期で特に大事ですが、慢性病でも必要だと。そして、そういうことに、医者が興味を持ってくれるようになってきています。本部長:
この二つのテーマを話されるようになったのは比較的最近なのですか?加藤先生:
肝臓病教室を始めて10年後、2002年『肝臓病教室のすすめ』(メディカルレビュー社)を出版しました。教室は情報提供がメインでしたが、グループワークをすると病気を抱えていても前向きに生きることに繋がると思ってすすめてきました。それが全国に広まり、2011年には、厚労省のほうから、肝臓病教室のやり方を講演して欲しい依頼があったのです。厚労省の下に肝臓病拠点病院の長が集まるところで話をしました。現在、全国で170施設が定期的に教室を開催しています。主要な病院の約二割が行うようになったのです。大本教の教えでは、自分達が「良い型」を作ればそれが世の中に広まるという教えがありますが、ひとつの型を作れた、大本の信仰が生きたかなと思っています。 「スピリチュアルケア」というと、以前は、怪しげなものと医者がひいてしまうという感じがありました。ところが、今では、スピリチュアルケアという言葉は、少なくとも終末期医療においてはごく当たり前の言葉になっています。そういう時代になってきているのだと思います。 世の中が全体として、情報提供とスピリチュアリティを大切なものとして認識するようになってきた。それは、すなわち患者さんが自立することを助ける、自立をしながら連帯することを支えることだと思います。本部長:
自立と連帯ですか。スピリチュアリティの個人性社会性について、お考えをおきかせください。加藤先生:
たとえば、アルコール依存の人は、好きで飲んでいるというより、お酒を飲まないでは生きていけない程苦しんでいる人です。お酒を飲む事によってなんとか生きている事を保っている人なのです。そういう人達が集まって話している間に、自分自身を客観的に眺めたり、自分よりちょっと先に行く人を見習ったりでき、それがそれぞれの人の霊性を高めることに繋がるし、社会の連帯とも繋がった霊性になっていくのだと思います。本部長:
自分自身を客観的にみつめることは霊性と非常にかかわりが深いということなんですね。あと、先行く人をみつめるというのは社会性あっての話ですよね。自分が一歩先に行って、一歩後ろにいる人を導いてあげるという、それも社会性ですよね。そういう社会性の中に、自分を客観視する、あるいは霊性向上のきっかけになるようなものが含まれているのですね。加藤先生:
最近思うのですが、医者と患者の関係性を見直すということが、社会全体にとってとても大事なことだろうと。今、専門知が一人歩きしているような社会になっていると思うのです。原発の問題だったり、遺伝子操作の問題だったり、それが社会全体に大きな問題を起こそうとしているのに、専門の人が専門職としてだけやっている。ところが医療の専門知というのは、それぞれの人が患者としてそれぞれの個人的な体験として経験するわけです。その時に、医師である専門家と患者である市民がどう情報をやりとりするのか。専門家と市民との関係性の在り方をそこで練習すれば、その発展系として、社会全体として、専門知と市民がどう関わり合っていくかというほうに広がっていくのではないかと考えています。多分これから大事なのは、そういう社会公共性をみんながどのように考えていくか創り上げていくかということだと思うのですが、そこのまず一歩が、実は医療の問題ではないかと思い始めているのです。社会と繋がってくることが、スピリチュアリティでもあると思います。本部長:
実は、私自身はスピリチュアリティの個人性と社会性を繋げるのは、場所という概念がポイントかなと思っているのですが。加藤先生:
ある意味で、私も、場を作ることをしているわけです。肝臓病教室もごった煮会も場を作ることによってそこの中でみんながスピリチュアリティを高められるという、場さえ上手く創ることが出来ればスピリチュアリティが高められていくのだろうなと思い始めているのです。盛和工業株式会社代表取締役社長
盛和工業株式会社は、油圧制御装置と、産学共同開発による光触媒の応用技術で環境改善、保全機器の開発・製造をする企業。第18回 神奈川工業技術開発大賞 地域環境技術賞第31回 日立環境財団・日刊工業新聞社 環境賞優良賞などを受賞。平成22年より横浜知財みらい企業の認定を受け続けている。
創業者の子として、盛和工業株式会社に入社。現在代表取締役社長。盛和塾に1993年に入塾。
2013年 盛和塾全国大会経営体験発表。
現在、盛和塾世話人
参考図書:
経営者とは -稲盛和夫とその門下生たち(日経BP社 2013)
ホームページ :
盛和工業株式会社 http://www.seiwa-inc.com/
盛和塾横浜 http://www.seiwajyuku-yokohama.com/
聞き手 IARP 本部長 本山一博(2013・9・13 盛和工業にて)
~産業用油圧制御装置で高いシェアを持つ盛和工業を継いだ栗屋野盛一郎氏は、1993年盛和塾に入塾し、2001年バブル崩壊後、取引先の企業が設備投資を抑えたことなどから大変な経営危機に陥った~本部長:
いきなり売り上げが5分の1になった時期が、どのくらい続いたのですか。栗屋野先生:
そう一年近かったですね、もうつぶれると思いましたから。その時、稲盛和夫塾長の「もうだめだというときが仕事の始まり」という言葉・・・あの「言霊」でどのぐらい救われたことか。「言葉は人を救う」ということをすごく感じました。もうほんとうに。だいたい人間ダメだと思ってしまうともうダメなんですね。その時にあの言葉と出会った。あの言葉がなければ、「盛和工業」も今の私もなかったと思います。
30代の前半で人間も出来ていない時分に、自分が経験もしたことのない修羅場が来るわけですから、どうすればいいのかわからないわけです。でも、たった一点「あきらめないこと」だということを教えてもらった・・、一般的によく聞く言葉かもしれませんが、それを盛和塾というところは、経営手法―従業員をモチベートすることや経費・売上げを管理することーと一緒に教えて頂けるのです。ですからトンネルの出口が見えたわけですね。
本部長:
1月に稲盛先生にインタビューさせていただいた時、けっこう驚いた言葉がありました。先生は「私は善の探求において、『個』と『公』を区別しない」とおっしゃったのですね。(新刊『人間に魂はあるか?』223頁参照)栗屋野先生:
それはかなりハイレベルのお話で、ぱっと聞いて理解できる人が何人いるかというとちょっと疑問だと思います。ただ、常に塾長は常々「利他」と言いながら、「燃える闘魂」ともおっしゃいます。「燃える闘魂」というのは欲望なんですね。欲望がなければ人間は燃えられない。お金を稼ぐ、利益追求ということは、けっしてボランティアのような面ではないわけです。その中で「布施」の気持ちを持ちなさい、少しでも自分ができることを「施しなさいよ」とおっしゃいます。
本部長:
稲盛先生は儲けたいという欲望も否定しないで肯定的にとらえられていらっしゃいますね。栗屋野先生:
「両極端併せ持つ」というのが、私は稲盛塾長の他の経営者や哲学者と違うポイントだと思っています。「両極端を併せ持つ」というのは、人間にとってとても大変なことだと思います。経営という場面では、儲けを出さないと良い人 (立派)ではないですね。そこは「欲」という「エンジン」がないとできない。「欲」と「良心」という「エンジン」を二つ併せ持つのは並大抵のことではない、それはすごく難しいことだと思っています。本部長:
このところ、宗教界は、癒しとか慰めに偏っていて、「寄り添う」とか「耳を傾ける」とか、やさしい言葉ばかり出てくる。もちろん、癒しは宗教にとって大事なことなんですけれども、例えば旧約聖書でも神様は、まず最初に、宇宙世界を創造します。この宗教の持っている「創りだす力」というのがこの十数年非常に軽視されているように思います。物を作りだすエネルギーの部分が今非常に欠けているような気がしますので、ぜひ今回のシンポジウムでは、製造業の方に、それも盛和塾の方に登壇していただきたいと思ったのです。今の若い人たちは非常に気の毒で、いわば一生働いても返しきれない借金を背負ったおじいさんから、お前はその借金を返せ、しかも世話しろと言われているようなものです。若いたちが作る未来がよくなるには、慰める癒すだけではだめで、彼らは生み出していかないと食べていけないのです。
栗屋野先生:
「癒し」ではなくて、「どうか諦めないで」という方を、私はシンポジウムで受け持つわけですね。本当に、この国のいちばん危惧しなければいけないのは、現在、経営者になりたい人がすごく少ないということだと思います。リスクばかりが先行して耳に入って来る世の中になっている。「リスク」があるのは当たり前の話で、それはどこの国の人でも同じ条件ですが、それを乗り越えて次の世代を作っていかなければいけないのだと思います。本部長:
経営者に限らず社会のリーダーになっていこうという気概を持たないと。いまリーダーが出てこないのですよね。盛和塾の塾長先生はカリスマ、宗教団体で言えば教祖ですが、盛和塾の皆さんは教祖がいない場面でも情熱を伝搬し合っていますよね。それはいったいどのようにしてなのでしょうか。栗屋野先生:
塾長の「フィロソフィー」という「共通の言語」を通じてということですね。「共通の言語」ができ上がっているお陰で皆の心の壁がすぐにとれていく様です。異業種同志が偶然集い、いままでまったく関係性がなかった我々の様な塾生が、突然二十年来の友達みたいに話ができるというのは、その空間の「素晴らしい磁場」と「フィロソフィー」という「用語」のおかげです。私は、塾長が話されることを宗教的であると思ったことがないのです。私が子供のころ、妹の大病をきっかけに両親が『○○教会』に入りました。私も、小さいころから少年部や青年部などに行ったりして、「人に迷惑かけちゃいけない」「人の気持ちを思いやりなさい」などいろいろ教えてもらったのですが、「燃える闘魂」の方はないのですよ。私が放り出されたのは「経営者」というフィールドですから、これだけだと正直やっていけないのですね。 手を合わせる時に何を考えているかというと、「私」という「小宇宙」と「全体」の「大宇宙」とが、折り重なるような感じのイメージを持つことがあります。もう40年か45年くらい手を合わせているのですけれど、目をつぶっていると、自分の思いが不純だと暗いんですよね。ところが「公共性」というか「利他」、「誰かのため」というのがすごく広がった瞬間、ぱぁ~と明るくなるのです。それはもちろん本気で祈らないとダメなんですけれど、心の中というか、目をつぶっている目の前が、ぱぁ~と明るくなる、という体験が何回かあって、その時には何かいいことが起こる、信じられないことが起こるのです。例えば全然うまくいかなかった交渉がうまくいくとか、そういうことがたくさんありましたね。親がいちばん大きな遺産として残してくれたものは「祈る」ということ、毎日毎日決まった時間に「祈願」するという「習慣」がついたということで、ずいぶん「人格」も変えていただいたような気がしますね。「祈る」という行為がすごく大事なんだ、「心に描いた通りになる」という、その「概念」は何となくわかります。長くやっているので。
本部長:
稲盛会長は、ある本のなかで、なかなかうまくできない人に、「神様に祈らなければいけないほど努力しろ、その後に祈れ」というようなことを書かれているのですが。そのあたりはどう思われますか。栗屋野先生:
さきほど「燃える闘魂」とか、「誰にも負けない努力」という言葉が出てきましたけれどもそれなんです。それが「欠けていた部分」だったのです。うちの母が、神に一生懸命祈る人だったのですけれど。母と話していると心は和むのだけれど、燃えないのですね。燃えるものがほしいわけですよ、「エンジン」が・・。きれいごとだけじゃ絶対進まないなとずっと思っていたので、だから先に「努力」、そのあと「祈り」というのは、すごくわかるのです。「欲」という「エンジン」がないと、人間ってたぶん行動できないんだと思うのですよ。それが経営者の場合にはお金につなげていかなければならないというのが、はっきりとされているということだと思うのです。お金がなければ人を幸せにできない、生活を守ってあげられない、寄付もできない、塾長も「京都賞」を創設されましたけれど、お金がちゃんとあることが大原則なのです。「お金」に操られるより「お金」を操る方になれというふうに、自分には言いきかせています。
本部長:
「お金に操られるのは心、お金を操るのは魂だ、霊性だ」というようなことですね。栗屋野先生
そうですね。おっしゃる通りだと思います。答えそれそのものだと思います。凡人は皆お金に支配されてしまう、「心」が・・。たぶん盛和塾生の目標のひとつは塾長のように「魂でお金を操る」ほうになるということですね。そこまで昇華しないと、お金は集まってこないのだと思いますよ、お金を追っている限りはお金が付いてこないから。本部長:
一人のカリスマに皆が付いていくのは危険ですから、いかに質の良いリーダーを生み出し続けていけるかが社会の活力かと思うのです。そして、さきほどおっしゃるように、経営の世界に限らず今リーダーになろうという人が少ないですね。そのためにどうしたらいいのでしょう。栗屋野先生:
リーダー論は最も今、日本に必要なことだと思います、この国の行く末はそれで決まってしまうのではないかなと思って。スーパーヒーローを創りだすのは教育なので、教育として、こういうものを伝播する人たちが残ってなきゃいけない。本部長:
信仰されている『○○教会』では、盛和塾でするような、教えを皆で語り合うようなことはなさっているのですか。栗屋野先生:
子供と仲たがいになったのを神に祈ってこういう「考え方」になって打ち解けるようになったみたいな事例の話し合いはあるのですけれど、そこには「燃える闘魂」のような「強い意志」がないのです。ものすごく汚い世界ときれいな世界は本当は一緒なのではないかという答えを出してくれたのが稲盛塾長です。宗教の場に来る人というのは、被害者意識というか、救われたい癒されたいと思ってきている人の方が、多いのではないかなと思います。「盛和塾」というところは、明日につなげるためにどういうふうにやって行けばいいのか習いたい人が集まる、日々闘っていくにはどうすればいいのだろうという「知恵」をもらいに行くところだと思ってください。あそこに行くと「和む」な、というのと、明日は「また頑張るか」と思えるというのはだいぶ違いますよね。この対比だと思います。
盛和塾が終わると、ああ、早く帰って事務所で早く仕事しよう、常にそういうふうに言います、皆。今日は良かったみたいで終わることはないですね、みな焚きつけられて「やっぱり明日も頑張ろう負けてられないな」そういう感じの雰囲気です。宗教にはない世界ですよね。
今日本の足りないのはエンジンですね。「エンジン」「欲望」というのを、すっかりなんかみなそがれてしまっているような気がしています。ただ「良い人」だけでは生きていけないと思うのは自分だけでしょうか?
現職:
千葉大学大学院人文社会科学研究科教授
千葉大学地球環境福祉研究センター長
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授
日本ポジティブサイコロジー医学会理事
略歴:
1963年東京都生まれ
東京大学法学部卒
東京大学法学部助手、千葉大学法経学部助手・助教授、千葉大学教授、1995~97年、ケンブリッジ大学社会政治学部客員研究員及びセルウィン・コレッジ準フェローを経て現職。
専門:
政治哲学、公共哲学、比較政治
マイケル・サンデル教授と交流が深く、NHKで放映された「ハーバード白熱教室」では解説も務めた。
政治的なテーマに加えて、ビジネス哲学や人生哲学についての講義を、各地で行っている。
著書 :
『サンデルの政治哲学──正義とは何か』(平凡社新書 2010年)
『サンデル教授の対話術』(NHK出版 2011年)
『対話型講義 原発と正義』(光文社新書 2012年)など多数
監訳・解説書
『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』(早川書房 2010年)
ホームページ:
小林正弥研究室 http://masaya-kobayashi.net/
公共哲学ネットワーク http://public-philosophy.net/
聞き手 IARP 本部長 本山一博(2013・11.2 小林先生御自宅にて)
小林先生:
シンポジウムでは、アミタイ・エツィオーニという人の思想を少し紹介したいと思います。エツィオーニが強調しているのは、本山博先生の言葉でいえば、個人性と社会性のバランスなのです。エツィオーニは「自律と秩序」と言っているのですが、国によってそのバランスが悪く、たとえば当時のアメリカは余りにも自律(個人性)の方にいってしまって秩序(社会性)がなくなっているから秩序を強調した方がいいとか、逆に、日本とか中国は秩序の方が重視されていて自律性が少ないから自律性を重視した方がいいというように、コミュニタリアニズムの考え方を整理してコミュニタリアン運動を行ないました。そして一国のコミュニティに留まらず、グローバルなコミュニティということも言っているのですね。エツィオーニ等の考え方よりもさらにグローバルな観点を強調しているのが、私達が提起しているグローバルな公共哲学とかグローバルなコミュニタリアニズムなのです。その辺のコミュタリアニズムの概要を紹介し、それが「本山博先生の言われている個人性と社会性とか、地球社会のビジョンということと非常に近い」という話をしようかと思っています。 個人性と社会性に限らず、二項対立の状況というのは世の中にいろいろありますが、本来は、バランスで真ん中をとるというのではなく、対話を展開してもっと高いところに統合していくというのが理想だと思うのです。けれど、現実社会でそれがなかなか難しい時に、バランスとか中道というのが近似的な解かなと思っています。本部長:
今のお話を伺っていて、昔僕が、「フランス革命の3原理、自由・平等・博愛(友愛)で、自由と平等は対立概念の上に具体的な政策と結びつく、でも博愛は具体的な政策と結びつかないのではないか」と言ったら、小林さんが、「いや、この具体的な政策と結びつく自由と平等の対立概念を、根底で支えて両立させるのが博愛概念ではないのか」おっしゃったのを思い出しました。小林先生:
まさにそういうことです。友愛とか博愛というのは、対立を対立に留めず、統合とか止揚とかそういう方向に向かわせる力であり、バランスをとるだけではない可能性を含んでいる概念だと思っています。本部長:
そうすると、自由・平等・博愛という構図と、個人性・社会性・スピリチュアリティ霊性という構図は、似ているのでしょうか?小林先生:
非常に似ています。友愛をスピリチュアリティと言い換えてもかまわないと思います。 私は、スピリチュアリティというのは、人間の主観的な精神性と、不可視の実在という二つの意味を持って使っているのですが、友愛という概念は主として前者、精神性のほうです。しかし、フランス革命の頃の人達、ジャン・ジャック・ルソーなどは、自然の秩序などの実在の感覚も持っていた、と思います。本部長:
この場合、実在というのは、実際にいる「神」ですね。スピリチュアリティの内在、外在ということを考えると、やはり本山博的場所概念にどうしてもいきますね。小林先生:
今、公共哲学とか社会哲学、環境論などでいわれている場所の概念というのは、どちらかというと時空間的な、表層的な場所の概念なのです。ただ、もちろん、そういった場所の概念と西田哲学などの深層の形而上学的な場所概念との関係を考えようという議論はありえます。ただ、その二つをはっきりと結びつけている議論は、それほど多くはないと思います。本部長:
本山博場所論の概念を単純化しすぎていうと「魂の奥底を覗けばそこには他の人に通用する普遍性が自ずと備わっている」ということにつきるかもしれないのですが。小林先生:
そういう見方を現実の政治とか経済とか人間の生きる世界との関係でどう生かしていくかというときに、地理的な場所、時空間的な場所との関係を考えていった方が、より形而上学的な深い場所の概念が生きるのではないかと思っています。 我々が今まで政治や経済を考えるときに、どういう場所的環境にあるかということは、あまり考えないでいました。ところが、自然環境の問題などでかなり深刻な破壊を巻き起こしているわけですから、そういう意味での場所的感覚とも人間のコミュニティをより良くさせる為には重要だと思っています。 経営学の理論でも場所を重視している思想があります。企業や工場をひとつの場所ととらえて、場所をしっかり整えた方が、企業は活性化し、経済的に伸びていく。また、組織のミッションとか理念を実現させるために、現実の場所が役割を果たす。たとえば、対話しやすくて、みんなが議論して、活性化していくような空間の作り方もあるし、そういう対話が遮断されていて、活性化しないような空間の作り方もある。部屋の作り方とか、工場の造り方などは、かなり大きな影響を現実の人間の行動パターンとか思考パターンとかに影響を及ぼします。さらに言うと、今、土地の地形や環境との関係で、どういう都市を造るかとか、エコロジカルシティとかいう話もされている。本山博先生も、東洋的な森の文明と西洋的な砂漠の文明を比較され、土地の状況とか地形との関係で、宗教とか文化の方向性、個性が変わっていくとおっしゃっていますね。 本山博先生の「場所」の概念は地球全体も含むような大きな概念が根幹にあるけれども、同時に、本山先生は、自分の中に日本という国が感じられる、県が感じられるという感覚もお話しになっていらっしゃいますね。個人が、国レベルで場所的な意識をもったら、日本の国土が荒廃して自然がなくなるような状況には痛みを感じるわけだから、修復して自然環境をもう一回エコロジカルな環境に整えたいという気持ちが出てくるのではないでしょうか。そうだとすると、形而上的な場所が表層的な場所論とも関わってくる。 昔は、自然環境を尊重する生き方をしていて、「ここは立ち入ってはいけない、こういうふうに使ってはいけない、こういうものは尊重しなくてはいけない」などの規則があったと思います。ああいうしきたりは先祖代々確立してきたもので、人間が頭で考えつくったものもあるとは思うけれども、限定されたものにしても場所的意識に目覚めた個人がシャーマンなどにいて、その人たちが、そういう自然環境と共生する考え方を確立したという場合もあるのではないかなと思うのです。そういう智恵を今、現代社会は、科学的な方向に行っていて失ってしまっているから、自分が好き勝手に使いたいように自然を改造して、その結果自然破壊、危機を招いているのではないかと思います。 空間的な場所の中に形而上的な次元があるし、形而上的な場所の感覚の中に時空間の感覚があり、私はこの二つは結びつきがあると思っているのです。けれど、西田哲学の専門家たちと話しても、表層的な場所論と形而上的な場所論の関わりの話はあまり出ない。きいてもおそらくその答えは出てこないと思います。本部長:
たしかに二つの場所論を結びつけるのは知的にも実践的にもハードルが高いかもしれないですね。 場所的意識を持った人といえば、稲盛和夫先生のところにインタビューに行ったとき(『人間に魂はあるか?』所収)、私は善を追求するのに個人的なものと社会的なものと区別しないとおっしゃっていたでしょう?小林先生:
普通の発想だと、個人個人で考え方が多様で違うから、個人の考える善が全体の善と違うことは十分にありうる。場合によっては対立する。そこで議論して、共通の善を模索していきましょうというのが、実はコミュニタリアニズムの基本的な思想なのです。稲盛さんがこの二つを区別して考えないというのは、私たちからみると、その二つが密接に関連しているという感覚を表現されたというふうに感じたのです。 稲盛さんは経営判断をするときに、この行為が善に通じているのかというのを常々問い直して、それで重要な決定をすると話されています。自分で深く考えて判断した善が、公共善と等しいと感じられる感覚は、もし本当のものである場合には場所的な意識に近づいている時に現れるのだと思います。場所的な意識に近づけば、個人の善と公共の善が一致していくのだと思います。本部長:
では、どのようにすれば、一致していくように霊性を高められるのか、思うところがおありでしょうか?小林先生:
東洋的な思想だったら、瞑想をするとか修行をすることで、自分の殻を突破して場所的な意識に目覚めれば、自ずと直観的にそういう善が自覚できるということだと思います。ヨーロッパ的な発想は、対話をして、個人の限界を越えてより高い立場に止揚が生じると、自分の考え方と全体の立場が接近していくと言えると思います。そして、この二つは、同じことの別のアプローチというふうに理解できると思います。本部長:
小林先生は、よく対話の後に瞑想的なことをなさいましたよね。瞑想と対話を同じ時と場所でする、併用する事によって効果が高まるのですか?小林先生:
私はそう思います。高校生向けの対話型講義をしたときも最後に「振り返り(瞑想的なこと)」をして、非常に評判がよかった。「振り返り」は瞑想の「外から自分を見る」というのと、基本的には同じ方向を向いていると思うのです。本部長:
場所論的な発想はやはり対話と瞑想を結びつけるものがあるのかもしれないですね。
現職:
上智大学神学部教授
同大学グリーフケア研究所所長
略歴:
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学
筑波大学哲学思想学系研究員、東京外国語大学助手・助教授を経て、東京大学文学部(大学院人文社会系研究科)宗教学宗教史学科教授
1996年、シカゴ大学客員教授
1997年、フランス社会科学高等研究院(Ecole des Hautes Etudes en Science Sociales)招聘教授
2000年 チュービンゲン大学の客員教授
2006年 カイロ大学客員教授
2010年 カリフォルニア大学バークレー校フェルスター講義
2011年 ベネチア・カフォスカリ大学客員教授
専門:
宗教学、近代日本宗教史、死生学
主要著書:
『現代救済宗教論』(青弓社 1992)
『精神世界のゆくえ』(東京堂出版 1996、秋山書店 2007)
『現代宗教の可能性』(岩波書店 1997)
『時代のなかの新宗教』(弘文堂 1999)
『ポストモダンの新宗教』(東京堂出版 2001)
『〈癒す知〉の系譜』(吉川弘文館 2003)From Salvation to Spirituality (Trans Pacific Press 2004)
『いのちの始まりの生命倫理』(春秋社 2006)
『宗教学キーワード』(共編著 2006)
『スピリチュアリティの興隆』(岩波書店 2007)
『宗教学の名著30』(筑摩書房 2008)
『国家神道と日本人』(岩波書店 2010)
『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版 2012)
『現代宗教とスピリチュアリティ』(弘文堂 2012)
『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社 2013)
ホームページ :
島薗進・宗教学とその周辺 http://shimazono.spinavi.net/
聞き手 IARP 本部長 本山一博(2013・11.14 上智大学にて)
本部長
シンポジウムは、個人性と社会性を「霊性」という観点から両立・統合するというような内容なのです。島薗先生
人はもともと共に生きている存在ですから、個人として開花するにも、共にある場所というのを持っていないと、と思うのです。本部長
共にある場所?島薗先生
場所。あるいは共にある相手。 しかし、宗教の中には自分自身に閉じこまらざるをえないような経験とか状況があります。そもそも、苦しい時には人に伝えようがない。何とか伝えることでそこから少しでも楽になりたいと思うのだが、それもできない。そういうときにこそ宗教が求められると思うのです。 病気で長いこと苦しんでいる方は病のことで頭の中がいっぱいになって、病気の中に閉じこめられるということがありますね。また、生きていく上で難しい問題に突き当たって、一度そこにひっかかってしまうとそこから抜け出せない。そういう精神的なひきこもりもある。ひきこもる、孤独の中に退いていくというのは、人間の創造性の基にもなるわけです。孤独があるからこそ深まりが出てくるし、人の苦しみや悲しみに対する共感力も出てくる。人類文化を豊かにしていくのには孤独というものを大切にしていかなければならないと思いますね。 ところが、現代社会は孤独になることを許さないように組織化されてしまい、社会の都合の方に人間をひっぱっていく。個人主義であるようにみえながら実はそういう特徴を持っている。孤独を深めていく場所も、人と共にある場所があるからこそ深まるのですが、現代はそういうものも大変貧弱になっています。 ひきこもりというものが創造的にならないで、細く狭くなって、そこにしかいられなくなってしまう。というのは、社会に出ていくと或る方向へ方向づけられてしまって、自分なりの生き方を実現する仕方がみえないから。社会が経済価値を極端に強調しているので、そこから自由になるのは、大変なわけです。社会が準備している場所が、経済的競争という画一的なものしか生み出せない場所なのです。本部長
画一的な場所とポジティブなひきこもりを作れるクリエイティブな場所の違いは?島薗先生
この間、松山に講演に行ったのですが、松山は俳句が盛んなのです。俳人というのはよく旅をする、そして仲間を作る。旅をする人はどこか孤独で、孤独な死に向き合う人生の中から豊かな作品が生まれてくる。それを仲間で分け合い、糧にしてそれぞれの人が俳句を作る。そういう共同性と個人の孤独が相互に支え合うというような感じになっていました。本部長
その両面を生かし合うという点で、スピリチュアリティとか霊性の役割は?島薗先生
スピリチュアリティというのは、個人の方へ注目しているのです。個人個人が自分の中にある宗教的な感性を育てる、宗教的な経験を持つようにする。そちらの方に惹かれる人が多いのですが、やってみると、何も枠組みのないところであなたなりのスピリチュアリティを育てなさい、と言われても途方に暮れてしまう。仲間や指導者も必要だということになってくるが、現代社会では仲間や指導者がいると、閉ざされた集団を作る、と感じてしまう。 そうなると、共に学ぶ、共に自分を育てるけれども、集団のような固定的な枠組みではないものを求めている。それはネットワーク、場所と言っていいと思うのですが、これも必ずしも創造的なものになりにくいという難しさがあると思うのです。本部長
閉じこもっている人たちというのは自分一人では自分を癒せない、他者がいるから癒されると思うのですけれども。島薗先生
これはやはり人は「いのち」を分かち合うふうにできているからだと言わざるをえないのではないだろうか。だから、単身で生きているということは辛いことですよね。親しい家族がいるということはとても大事なことですが、それもなかなか難しくなってきている。そういう人たちがお互いに支え合う場所というのも必要になってきていますよね。 個人の自由を尊ばなければならない、そのために社交の能力さえ失われていく。社交の能力が弱まると同時に競争心が強すぎて、自分を受け容れられていないという感覚で傷んでしまう。自分も傷んでいるから人にそれを転嫁し、他者から受けた痛みを別の他者に押し付けることで、仲間を固めようとするという社会になってしまっているのですね。本部長
他者を受け容れるというのは社会性、それとも個人性なのでしょうか。島薗先生
両方があるからこそ他者を受け容れられるのだと思います。お互いが緊張感を持っているような関係を苦にしない。ある人から圧迫を感じてもそれを超えていける。そういうのは孤独の強さだと思うのです。そういうものが養われていないために、仲間の作り方が下手になる。仲間を作っても排除するような仲間の作り方をする。本部長
「個人」というものには、ポジティブな側面とネガティブな側面、両方あるのですか。島薗先生
孤独が力になるという側面と、孤立して力を奪われてしまうという側面がある。 人に支えられる場所があるからこそ孤独になれる。子どもが遊ぶ時に、母親がいて、「あなたが何をやっても守ってあげる」という感覚があると、子どもはいろいろなことに挑戦できます。そして、挑戦する時はどこか新しいことが怖い、孤独を味わい始めているわけです。それが深刻になってくる思春期になり、青年になり、社会の中に一人で巣立っていくとき、自分なりに足場を見出していくことがどこまでできているか、ということですよね。 大人になるために必要な孤独と社会性、これが現代社会ではなかなかやりにくくなってしまった。昔なら職場へ行けばその中に訓練の場があり、支えられながら鍛えられる。しかし、現代社会ではそういう見守りながら育てる、そしてそこで孤独になって自立していく、自立することによってまた共同性に応えていく、というプロセスが成り立ちにくくなってきている。本部長
孤独になってもそれを受け容れたり見守ってくれたりする人たちの存在があるかないか、ということですね。島薗先生
現代社会は、経済競争に勝つためにいろいろなシワ寄せを人々に強いている。子どもは勉強しろ、勉強しろと言われて偏差値を気にして、自分は受け容れられていないという感覚をいつも持ち、会社からはみ出るとひきこもりになったり路上生活者になったり、どこにも居場所がなくなる。そういうようなことが多すぎます。 スピリチュアリティというのは、霊性の優れたものを目指す側面と、苦しみや痛みに寄り添うという両面があると思うのです。その両面がうまく噛み合ってこそ深みがある、価値のある霊性というものになると思います。本部長
例えば、噛み合っていないのはどういう事態でしょうか?島薗先生
立派な方になるものだけを目指していくと、どこかでエゴセントリックになって、いく。分かち合う喜びが狭くなって、自分が特別だと思う、そういう満足の方に向いてしまうのですね。 また、分かち合い、慰めの方は、他者のために、ということばかり考えてしまうと、自分自身の目標を見失って他者に引きずられるということも起こってくる。集団の一体感に依存しているという傾向ができると思いますね。仲間の中での喜びで閉じこもっていく。その辺は、集団性を重んじる宗教が陥りがちで、その場合に指導者を特に高く崇拝して、特定の指導者と一体化することで集団の連帯感を作っていくと、それも他を排除するということになりますね。それもまた開かれてほしい。開かれるためには、外に向かって開くと同時に、個々人がもっと豊かにならないと。本部長
高みを求めることと、癒し・慰めが噛み合っているという具体的なケースはありますか?島薗先生
私の経験でいえば、まず、アメリカの黒人の教会ですよね。そこには本当に慰めがある。慰めがあるからこそ、厳しい環境にいても、それぞれの人が社会でしっかり生きていける。そして自分たちの集団だけではなくて、外に対しても活発な関心を持っていましたね。 社会の弱さに対して敏感であるけれども、そういうものと向き合う活動としてそれぞれの人が自分の個性を磨いていっているという集団というのは、いろいろなところで経験したように思います。日本の中でもありますね。本部長
最後にスピリチュアリティとか霊性というところに戻ってみますと。島薗先生
これはますますスピリチュアリティというようなものを求める傾向が強まっていくと思うのです。つまり、何かを集団的に信じるということで生きがいを満たすことが実感しにくくなってきているので、それぞれのやり方で霊性、スピリチュアリティを深めていくということが求められるようになる。ところが、それをどのような形で支えていくか、ですよね。一人でやるといっても実際はそう簡単にはできないわけで、それを支えていくシステムを作っていかなければならないのですが、今日本社会でもそれをいろいろ模索している。本部長
スピリチュアリティ自体も個人的な側面と集団的な側面がある。島薗先生
そう言っていいと思いますね。例えば、病院やケアの場のグリーフケアとかスピリチュアルケアですが、やはり訓練を受け、相互啓発を続けながらやっていかないと、一人ひとりがバラバラということではやっていかれない。訓練や統制が必要になってくると同時に、それぞれの人がそれぞれのやり方でそういうものを養っていく。できる限りそういうものを進めていきたいわけなのです。 (了)現職:
妙智會教団法嗣
略歴:
1956年東京に生まれ。
1981年妙智會本部事務局に入局。
1987年妙智會理事。
2002年同理事長に就任。
2013年6月に法嗣となる。
妙智会館は、宮本法嗣のこれまでの芸術活動をあらわすもので、会館内のオブジェの多くは宮本法嗣の制作による。
数多くの協力団体において積極的に活躍。現在は世界宗教者平和会議(WCRP)国際評議員、新日本宗教団体連合会(新宗連)常務理事、日本宗教連盟評議員などに従事。
仏教指導者であり、子どもたちの幸福のために宗教協力を推進する、信者数約70万人を数える在家仏教団体「妙智會」の法嗣を務める。
また、世界中の子どもたちの幸福のための諸宗教協力を力強く提唱している。ユニセフおよびユネスコと緊密に協力して活動を展開している国際NGO、ありがとうインターナショナルを統率している。
子どもの権利とその幸福の確立に専念するグローバルな諸宗教ネットワーク、「子どものための宗教者ネットワーク(GNRC)」の創設と、「共に生きることを学ぶ:倫理教育のための異文化間・諸宗教プログラム」の開発に尽力した。また、「子どものための祈りと行動の日(DPAC)」の立案と発足にも大きく貢献した。
父であり、現妙智會教団会長宮本丈靖師(96歳)より仏教指導者としての薫陶をうける。宮本丈靖師は妙智會創設者である宮本ミツ師や夫の宮本孝平師の下で修行した。会員は法華経を実践し、全ての人々に愛と慈悲を施し、世界平和に貢献することを目標としている。
ホームページ:
妙智會教団 http://www.myochikai.jp/
ありがとうインターナショナ http://www.arigatouinternational.org/jp/
聞き手 本山一博本部長(2013・10・7 妙智會教団本部にて)
本部長:
霊性やスピリチュアリティの観点から個人性と社会性が調和するということについてお考えを伺いたいと思います。宮本先生:
妙智會教団の根本教義は先祖供養です。私は、先祖供養自体が、霊性を体験するひとつのものであると思っています。そして妙智會教団創立者、私の祖母宮本ミツは「個人の幸せなくして家庭の幸せはない。家庭の幸せ無くして社会の幸せはない。そして社会がよくならなければ世界の平和は訪れない」という考え方をもって、組織をつくりあげていったのだと思います。
祖母は、自身が病気がちで、金銭的な苦しみもあり、そういう家庭内の悩み苦しみ等があって、先祖供養の道に入ったわけです。先祖を集め、平等の法名を付け、供養していくと幸せになれる。先祖が苦しんでいるからあなたたち子孫が苦しんでいるのだという非常に明確な教えに出会い、そんなに明確なものならば、やって答をみつけようと思ったらしいのです。そして、一度決めると徹底的にやるタイプだったので、先祖の霊を集め、1日7回御供養したというのですよ、1回か2回でいいといわれたのに。当時の御経の順序だと、御供養は1回多分30分ぐらいかかったと思います。主婦として家事をしながら、7回あげていたのです。
そして、供養と同時に大切なのは、導き(信仰にいざない、入信してもらうこと)。自分と同じような苦しみを持った人を救わなければいけない。救って初めて先祖もまたさらに成仏できるということです。
妙智會では、今、導きは懺悔なのです。自分の、また前世の行ないを詫びる為の一番いい行が導きだ、ということなのです。自分と似た人を導くというのは菩薩行のひとつですよね。良いものを与えることによって、自分と同じ因縁の人だから、その人を救うことによって、自分の持っている同じような垢がとれていく、ということなのです。
祖母も御経をあげながら、気分がよくなってくるわけです。病気も少しずつよくなってきた。これはやはり教えが素晴らしい。いい教えなのだから、私のように苦しい人を救わなければいけないんだとなって。導きを熱心にするようになった。
当時は、正月に導く人のためのお経巻を買って、これだけ導きますと誓願するのですが、それがだいたい千で、足りなくなったこともあったと言っていましたから、一年で千人以上の方を導いたわけですね。
そういう中で、祖母は女性ですから、非常に女性的なもので、信者さんに慈悲をかけていった。要は、「個人の幸せなくして世の中の幸せはない」それは、男の我々の感覚ではない感覚で多分して来たんだと思います。
本部長:
そうですね。男性はどちらかというと「社会の幸せなくしては個人の幸せはない」ですからね。宮本先生:
個の幸せを中心にしたから、当時どんどん会員が増えていったのだと思います。対社会とか対世界ということは、当時の信者さんには、あまりなかったのかなと思います。子供が病気、お金が無い、あの人と喧嘩してどうにもならないとか、貧病争ですか、それが会員になる導かれる理由だったのかなと思うのです。本部長:
妙智會教団の開教宣言には「私は女だけれども、世のために土台となって、世界の柱となる覚悟です」とありますが。宮本先生:
昭和25年、開教する時に、会主(祖母)は、次のステップに行かなければいけない、個から社会というものに目を向けていこう、と思ったのではないかなと思うのです。本部長:
個人の幸せと世界平和と霊性の関係をもう少し整理していただけますか。宮本先生:
個の幸せを追求していけば、必ず社会が良くなってくる。社会というのは個の集まりだから。そして、各社会がよくなれば、その大きなものである世界は良くなる。ということですから、修行当初から今日まで、個を中心とする世界平和、その関係性じゃないでしょうか?本部長:
先祖供養でお経をあげ霊性を感じるということでしたが、そうすると、霊性というのはどういうものだと思っていらっしゃいますか?宮本先生:
先祖供養の中での霊性というのは、私は「思い」だと思います。「先祖を思えるか」ですね。よく会主が私に「先祖供養で一番大事なのは、先祖を思うこと」と言っていました。自分の苦しみをとるために先祖供養をする人が多いのですが、それは先祖を思っていることではないのです。自分を治したいから先祖供養を利用しているのです。それは正しい先祖供養ではありません。初めはしょうがないと思います、大体人間皆そうです。まして、先祖が苦しんでいるからあなたにも出ていると言われたら、自分の苦しみを解く為の先祖供養でも初めのうちはやむを得ないと思います。しかし、いつまでもそれではだめなのです。それは一方通行の霊性ですよね。私は霊性というのは対話だと思っています。お互いに思い思われる関係でないと、霊性というのは成り立たなくなるのかと思います。供養する相手を思い、思うことによって向こうの思いもこちらに来る、仏教でいえば回向です。自分が救われたいからお経をあげるというのは、回向にならないわけですよね。利用しているだけでは正しい先祖供養にならないと思います。
本部長:
今のお話を伺っていて、本山博会長の「宗教は最初は人間のための宗教だった。でもそのうち神のための宗教にならなければいけない。」という言葉を思い出しました。ベクトルがどこかで変わるのですよね。 でも、なぜそれを霊性と感じられたのでしょうか。宮本先生:
先祖を思いながらお経をあげていると、何代か前の先祖のことを突然思ったりするのです。それで、過去帳をみると何回忌だったりとかの年回だったりするわけです。先祖を思いながらお経をあげていく中で、自分外の、向こうの世界のことが感じとれるようになってくるのですね。先祖の声が聞こえてきたり、感じてきたり、しだすのですよ。それがとても楽しくなってくる。先祖が今日はこんなに喜んでいるのかとわかってくる。こんなに先祖が喜んでくれるのなら、またお経をあげる気になる。一生懸命あげる。するとまた喜んでいる感じがする。この繰り返しが日々のお経になるわけですよね。そして、徐々に自分の先祖以外の方たちのことも思えるようになってくるわけです。膨大な先祖の事を思えるような心を持つようになると、自分の家族親戚先祖以外の方たちに対する思いというのも育まれてくるのでしょうね、本当の意味の人に対する思いやりというのが出てくる。世界の平和のことも考えるようになる。一人ひとりが先祖を思う心をもてば、社会の中で他人を思えるものを絶対持てるのだと。そういう人たちが増えていけば、菩薩達が増えているわけですから、当然、世界は平和になると思うのです。
本部長:
まとめますと、自分中心の一方的な先祖供養から先祖を思う先祖供養へ転換をする、その方向の転換が霊性で、そこに先祖という目に見えない人たちとの社会性が生じ、それが目にみえる世界での社会性に敷衍していく。自分の中に留まって自分だけの視点で一方的にみているのを止めるところに霊性の価値がある、ということでいいでしょうか。宮本先生:
その通りです。本部長:
霊性が何をさしているのかというのは、人それぞれ定義があり、今日お話しいただいた宮本先生の定義はまた新しい定義だと思います。宮本先生:
私も毎日、法嗣という立場で、前以上にお経をあげています。こういう家に生まれ、もう55年以上お経をあげているわけですが、つい最近も、ある場所で、長い時間お経をあげていた時、感動し、お経ってやはりすごいとはっきりと感じました。そして、新宗連とか世界宗教者平和会議という社会貢献する団体にも、私も少しは力になれるかなと思えてきました。自分のすごい体験というのは、意識のある人は、その力を社会に使おうという気持ちになってくるのだと思います。社会に対する意識を持っていないと個で終わってしまうと思います。会主も会長も社会勉強をすごくされていたのです。特に会主は女性でしたが、政治から何から、新聞は何紙も読み、テレビのニュースは必ず視、社会のものに対する意識というのを高めていたのです。個だけの霊性は素晴しいとは思うのだけれど、社会に対する意識を持ってこそ次のステップになるじゃないですか。
本部長:
そういう意識をもつことは霊性の開発に役立つと。宮本先生:
凄く役立つと思います。しかし、やはり、個がベースにないと、意識だけを持っていてもだめだと思うのです。個の霊性の修行をする中で、意識をもっていくと、貢献できるのだと思っています。社会貢献の意識をもっている人たちが、霊性を高めていけば、社会浄化になると思いますよ。そういう霊性を高めた人が、社会に対する意識を持って、いろいろな貢献をしていくと、非常に変わっていくのではないかと思っています。本部長:
そういう意味で、宗教団体の役割というのは、広く社会の人達の霊性を底上げすることかもしれないですね。宮本先生:
おっしゃるとおりです。それが一つの普遍だと思います。私は霊性というのを、個がしっかりと感じとっていく中で、社会意識をもっている人がいれば、世の中というのは変わっていくと思いますよ。そして、一方通行では霊性は高まらないと思います。妙智會教団の場合は先祖供養がきっかけですが、先祖を思うことが大切で、思う中で、先祖や御神仏の声も聞こえ、霊性が高まるのだと思います。 (了)
玉光神社権宮司
IARP本部長
1962年生まれ
筑波大学物理学研究科中退 理学修士
東京工業大学理工学研究科後期博士課程単位取得退学
新日本宗教団体連合会理事
日本宗教ネットワーク懇談会座長
宗教間対話、霊性交流を通して、宗教及び宗教実践の多様性を支える普遍構造を探ることに興味があり、それを個人の幸福とよりよい地球社会の実現に役立てたいと思っている。
編集及び解題著:
『本山博著作集全15巻』(宗教心理出版 2008~2010)
編著 :
『 人間に魂はあるか?-本山博の学問と実践』(国書刊行会 2013)
ホームページ:
http://www.iarp.or.jp/yoga/motoyama-kazuhiro-profile.html
個人の幸福と社会の進展調和を両立するスピリチュアリティとはどういうものなのか
物質文明が行き詰まり、これからは「心の時代」であるなどと言われるようになってから、かなりの時間が経ちました。その間、霊的な覚醒を促すような運動や、意識を高めるような運動がいくつか起きてきましたが、それらもやがて下火になり、実際に社会を変えるような運動にはなかなかならなかったように思えます。また、そのような運動の中には、霊的エリート意識を持つ人々の自己満足で終わるようなものもあったように思います。更に、「高い意識」を持つ人たちが、小さなサークルをつくり、外部に対して閉鎖的になったようなこともあったでしょう。
そのように考えますと、霊性やスピリチュアリティを志向する運動はあまり実りがなかったようにも思えます。しかし一方で、WHOの健康の定義にスピリチュアリティという言葉を入れようとする動きがあったり、ターミナルケアの世界ではスピリチュアルケアという言葉が一般化してきたりして、医療の分野では十年、二十年という長いスパンで見れば、スピリチュアリティに対する問題意識が少しずつ高まり、定着してきたようです。
医療や健康は個人に焦点があたる分野ですが、社会や組織のあり方でもスピリチュアリティが問題にされてきています。日本航空の再建という劇的なことがあったからでしょうが、稲盛和夫京セラ名誉会長の著された、明らかにスピリチュアルな思想を訴えている経営書が何冊も書店で平積みされていることを考えると、ビジネスという極めて社会的な分野においてもスピリチュアリティへの需要が高まっているのかもしれません。
このように考えますと、個人の幸せを追求する上でも、より良い社会を建設していく上でも、霊性やスピリチュアリティというものを念頭に置いて考えるべき時期が来ているのかもしれません。しかし、それは一筋縄ではいかないと思います。なぜなら、個人の幸福とより良い社会の建設は相互に依存しているものの、一方では対立した概念でもあるからです。そういう意味では、自由と平等の関係に似ているといえます。個人性と社会性は関連が深いものの、具体的な場面においてはしばしば対立するのです。
もし上述したように、個人性と社会性の両方がスピリチュアリティと関係があるのであれば、個人性と社会性の両立、つまり、個人の幸福とより良い社会の建設の両立を、スピリチュアリティという観点から考えることもできるでしょう。そして、これこそがこのシンポジウムのテーマであるのです。
現代社会では、個人はかつてないほど自由であるかのように見えますが、一方で個人はかつてないほど社会の中に組み込まれています。例えば、私たちが口にする食品のほとんどは、何らかの意味で国という機構と関わっています。近代以前はそうではなかったはずです。もし、牛肉を食べたいと思ったとき、私たちは好きな店に行って、自分の払える範囲で、好きな牛肉を選ぶことができます。しかし、どの肉を買っても、それは法律や条例という公権力によって定められたものにより販売が認められた商品なのです。輸入肉を買うのであれば、どの肉を買ったとしても、国の定めた方法と基準で検査されています。私たちの生活全体に、国というものが深く関わっています。しかも、日頃私たちはそれを意識しません。それゆえに、私たちの自由は、国という公権力の定めた枠組みの中で保証されているものに過ぎないと言うこともできるのです。
しかし、一方では個人の行動はかつてないほど自由です。ある意味で、私たちはあまりにも自由であるので、社会や他者に対して責任を持とうとしません。自らの自由な経済活動の結果が他者に及ぼす影響というものもあまり考えません。そうであるのに、個人は国という枠によって、ある意味ではがんじがらめに縛られているのです。
このような見えない矛盾はどのレベルでもあると思います。国というレベルでもそうであるのですから、いつか地球社会というものができたとき、個人と社会の関係はどのようなものになっているのでしょうか。そして、この問題を突きつけられるのは、そんなに遠い将来ではないように思います。そういう意味で、個人性と社会性の問題を今から考えておくことは有意義だと思えますし、それをスピリチュアリティという観点から考察することは、重要かつユニークであると思います。
今のところ、スピリチュアリティという概念はしっかりと定義されたものではないようです。スピリチュアリティというものが問題にされるときは、だいたい次の四つの位相があるように思います。一つ目は、私たちの心の中には、通常の知性や感情、つまりマインドやメンタリティーでは解決できない領域があるということです。二つ目は、私たちや世界の存在や生存と深い関わりのある、何かしらの意味で超越的な「大いなるもの」があるということです。三つ目は、目に見える物理的な世界が全てなのではなく、目に見えない世界が実在するということです。四つ目は、死後も存続する霊魂というものが実在するということです。
これらスピリチュアリティ概念の四つの位相は、関連しながらも別々に論じられているようです。個人性と社会性の両立調和と関わるのはどの位相のスピリチュアリティなのでしょうか。そのようなことを、領域横断的に論じられたことは今まであまりなかったのではないでしょうか。今回のシンポジウムは、そのための極めて先鋭的な試みなのです。
講師として、多彩な分野から優れた先生方をお招きすることができました。
スピリチュアリティ研究の第一人者である樫尾先生は、自らも宗教的行である瞑想を実践され、比較行研究という新しい分野を切り開きつつあります。また、宗教間対話研究にも取り組まれ、外から観察するだけでなく、宗教間対話に直接参加されています。
医療における新しいスピリチュアルケアのあり方を切り開きつつあるのは加藤先生です。もともと、肝臓疾患の専門医でいらっしゃいましたが、その中で患者が自ら関わる医療のあり方を模索されてきました。それが、従来型とは違う、医師と患者同志の新しい関係性を構築するスピリチュアルケアのあり方を提唱されることにつながったのです。
経営者である栗屋野先生は、工業用機械のメーカーの経営者として、業界の構造的な不況による大変な困難に直面なさいました。その中で、稲盛和夫先生が塾長をされている盛和塾の塾生として稲盛先生のスピリチュアルな経営哲学を学び、それを体得しながら会社の立て直しと新たな分野への挑戦を成し遂げられました。
公共哲学者の小林先生は、個人と社会の両方が生かし合う新しい公共概念のためには、善というスピリチュアルなものの追求が大切であると論じていらっしゃいました。この数年は、伝統宗教や新しい宗教との対話を具体的に重ねられ、さらにその思想の幅を広げていらっしゃいます。
日本宗教学会の重鎮である島薗先生は、当時はあまり重視されていなかった新宗教の研究で大きな業績を上げられた一方、現代社会の霊性やスピリチュアリティについても研究を重ねられ、死生学という研究分野の構築にも大きな功績を残されました。今回のテーマについて先生ほど深く考察されている学者は他にはいないのではないかと思います。
日本の宗教界のリーダーとして活躍されている宮本先生は、自らの教団の教勢を伸ばしながらも、宗派を超えた宗教間対話、宗教協力を推進されています。また、世界中の子供達の幸福のために国際的な活動もされています。宗教者としての優れた霊性の資質と、組織リーダーとしての実力を兼ね備えた稀有な方です。
このような様々な分野から優れた論客をお呼びすることができたのも、時代の要請するものに沿っているからだと思います。シンポジウム当日は、個人の幸福と社会の発展調和が両立する、より良い地球社会におけるスピリチュアリティのあり方を、あるいは、個人の幸福と社会の発展調和が両立する、より良い地球社会を創りだすスピリチュアリティについて、皆さんとともに考えていきたいと思っております。
どうぞよろしくお願い申し上げます。 (了)
場所 浜離宮朝日ホール 小ホール
東京都中央区築地5-3-2 朝日新聞東京本社・新館2階
前売 3,500円 当日 4,000円
協賛 5,000円(入場料込み)
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