タントラヨーガ チャクラ チャクラの位置と機能 ナディ スシュムナの浄化法
バンドハ
ムドラ アパーナ サイ(Psi) PK能力 アストラル・プロジェクション 観想法 軟酥の法 陰陽関係
宗教経験の世界 サッチャナンダ 呂巌の『太乙金華宗旨』 エジプトの「死者の書」 大乗仏教
竜樹
無量光 リードビーター ヴェーダ ウパニシャッド パタンジャリ サンキャ哲学 グルー(Guru)
唯識説 カルマ 超作
人間の尾骨の内に眠っているクンダリニー(物質的宇宙の根源力)を目覚まし、これを支配することを主たる目的とするLaya Yoga=クンダリニーヨーガに関する文献をタントラ(Tantras)と呼ぶ。このタントラは、神、女神として表現された神秘的力との協勤に関する神秘的呪文を含む。この神秘力としての神、女神は、宇宙でそれぞれ固有の働きをもつ。また、小宇宙である人間内の神秘的力のセンター、つまりクンダリニーやチャクラと結びついて固有の働きをする。これらのタントラの文献に書かれていることを内容とするヨーガをタントラヨガと呼ぶ。したがって、ラーヤヨーガ、クンダリニーヨーガ、タントラヨーガは密接な関係にある。
インドには、何千年もの昔から、タントラヨーガ(密教的ヨーガ)の修行法が伝えられています。その中で、特にクンダリニー、チャクラを目覚まし、人間を人間以上のもの、自由なもの、永遠なものに進化向上させ、不死の世界に目覚めさせようという行法
宗教の陰の部分、密の部分は、密教と呼ばれます。ここでは、この世が中心ではなく、神様、仏様そのものが中心となります。人間が、人間であることをやめて神様となり、仏様となっていく、つまり神仏と合一するところにその本来の目的があります。そのために、密教では、人間が人間以上のものに進化向上していく行法と道程を、弟子たちに厳しく教えます。タントラヨーガは、まさしく、ヨーガにおける密教の部分なのです。
*タントラヨーガにおける三つの身心
タントラヨーガは、三大神の中のシヴァ神によって創始され、人間に教えられたものだといわれます。この三大神とは、宇宙を創造し(ブラフマ)、それを保ち生かし(ヴィシュヌ)消滅させる(シヴァ)といわれる神々のことです。このタントラヨーガは、人間が絶対者、神に至って神になる方法なのです。
そのタントラヨーガによると、人間は、自在なるもの、全能なるもの、すなわち神に至るまでに、三つの次元の異なる身体と心を持っていて、その一つ一つの段階を登って、しだいにより高い次元の存在に目覚め、ついに、それら三つの形ある身心から解脱して、神の国に至ることが説かれています。
それでは、この三つの身心とはいったいなんでしようか。それは次の三つを指します。
(1) 肉体とその心(肉体と結びついて働く心=意識)
(2) 微細身とその心(感情が主役を演ずる)
(3) 原因身とその心(叡知がその主役を演ずる)
肉体とその心は、この三つの身心のうちで、この世にあって働き、存在するものであり、さきほどお話した陰と陽にしたがえば、陽にあたるものです。この陽の部分、形ある部分は、肉体的感覚や思考ではとらえられない、陰の部分である徴細身や原因身によって支えられ、その生を保持することができるのです。
密教ヨーガ タントラヨーガの本質と秘法 本山 博の著書 より
チャクラというサンスクリットの言葉は一般の人には耳慣れないが、ヨーガをする人、特にクンダリニー・ヨーガ、タントラ・ヨーガを行ずる人には重要な言葉である。
チャクラは「光の輪」という意味であるが、お寺に行くと、仏像や菩薩像の後光、前面にある光の輪が、チャクラを型どったものである。これは、行をして、日常の物理的世界より次元の高い精神の世界に目が覚めると、その精神界の身体の生命エネルギーセンターがより活発に働き始め、光を発するようになる。それが、超感覚的知覚が目覚めた人にはオーラとしてみえる。これがチャクラ、光の輪と言われる所以である。
この光の輪は、なにもヨーガ行をした人だけに発光するのでなく、キリスト教、イスラム、仏教、道教、神道、世界のあらゆる宗教の優れた聖人や修行者たちに関する記録の中に、その人々の周りに発光現象が生じたことが見られる。
ヨーガでは、物理的次元より高い次元の精神で未だ身体をもつ精神界を、アストラル次元とカラーナ次元とに区別し、後者が前者より、より精神的に純化されたものである。カラーナの更に上にプルシャ(純粋精神)を置くが、ここでは、自らの存在を維持するために身体を必要としない。
したがって、チャクラはアストラル体、カラーナ体に属するそれぞれの次元の生命エネルギーセンターであり、それぞれに七つのチャクラがある。
このチャクラは、上位世界と下位の世界の生命エネルギーを相互転換し、媒介するセンターであり、また、生命エネルギーを受容し、また、放射する働きをもすることが、体験的にまた実験的に確かめられつつある。
各チャクラを覚醒さすためのアーサナ、バンドハ、ムドラ、呼吸法、精神集中、瞑想法等と同時に、どういうことに注意しないと邪道に堕ちるかということも詳しく説明してある。例えばアジナチャクラを目覚ますには、それと直結しているスワディスターナチャクラをまず活性化しないと目覚め難い。クンダリニーを目覚ますのにバストリカ(速呼吸)はいいが、サハスラーラを開けないでするとシャクティ(クンダリニーのエネルギー)が上昇した時身体内にこもって、高熱が出たり、精神異常、頭痛が生ずる危険がある等。そして、ヨーガ行その他によって各チャクラがアストラル次元やカラーナ次元で目覚めてくると、心身に種々の変化が生じ、更に特定の超常的能力が目覚めてくる。また、アストラル・プロジェクション(幽体離脱)やカラーナ・プロジェクション(カラーナ体離脱)が生じてくるが、その時どのようなことに注意をしないといけないか。例えば、周天法を十分にして上下半身での気のバランスをよくとって、スシュムナの浄化法でサハスラーラを開けておかないと、アストラル・プロジェクションはうまくできない。無理にすると、頭痛が生じたり、なかなか肉体の内に還れなくなる、等々のことが、詳しく体験に基づいて説明してある。
チャクラが目覚めると、超感覚的な知覚能力が目覚めるため、まずはじめはチャクラが、さまざまな色を持った光輪(オーラ)として見えてきます。その見える場所は、だいたい次のようです。
ムーラダーラチャクラ 尾低骨のあたりで赤い光輪として見えます。このチャクラは、泌尿生殖器をコントロールします。
スワディスタナチャクラ ヘソから3~5cm下で、針灸医学でいう丹田にあたるところです。朱色の光輪として見えます。やはり、泌尿生殖器をコントロールします。
マニプラチャクラ ヘソは、針灸医学では神厥と呼ばれ、神の気(エネルギー)が出入りする場所で、重要な経穴なのです。また、そこから気のエネルギーが経絡の中を流れる出発点でもあります。
ところが、これと同様のことが、ヨーガでもいわれています。マニプラチャクラを含めて、ヘソのまわりにカンダスタナと呼ばれる球体があり、そこから、肉体全体をコントロールするプラナが、より高い次元(微細身その他)から流れこみ、転換されて生理的エネルギーとなり、肉体のナディである経絡を通じて全身に配分され、肉体が、その生命を保つことができるといわれています。
マニプラチャクラは、ほかに消化器機能をコントロールします。このチャクラは、青または緑色の光輪として見えます。
アナハタチャクラ 心臓のチャクラともいわれ、体前面の正中線と、両乳を結んだ線との交差するあたりにあります。経穴ではだん中にあたります。真赤な光輪、または金色の光輪として見えます。心臓の働きをコソトロールします。
ヴィシュダチャクラ 喉のところにあり、うすい紫色またはすみれ色の光輪として見えます。呼吸器をコントロールします。
アジナチャクラ 眉間にあり、第三の眼とも呼ばれます。太陽が千も同時に輝いたかのように、真白な光輪として見えます。このチャクラは、下垂体や知的機能をコントロールします。このチャクラが目覚めると、自分の内にある神我、真我に会えるといわれています。
サハスララチャクラ 頭頂にあります。人間の心身の全体をコントロールするチャクラです。このチャクラの、ブラフマンの門が開くと、肉体を離脱し、微細身心の世界、原因身心の世界に入ってゆくことができるといわれています。このチャクラは、金色、またはバラ色に輝く大きな光輸として見えます。
これらの七つのチャクラから摂取されたプラナは、それぞれの次元のプラナ(生命エネルギー)に転換されて、三つの身心へ、それぞれのナディを通じて配分されます。
これらの三つの身心は、それぞれ存在の次元が異なるとはいえ、いずれも有機的統一体であり、それぞれに次元の異なるプラナ(生命力)によって働き、存在することができます。この三つの身心のそれぞれの内に働くプラナは、それが流れ、働くためのチャンネルと、それらの流れや働きを統括する中心とを持ちます。そのチャンネルがナディ (脈絡)であり、各チャンネルを統括する中心がチャクラです。
肉体でいえば、血管系、リンパ系、経絡などがチャンネルで、神経叢、脳、経穴などが中枢(中心)です。微細身にも、原因身にも、存在の次元を異にするとはいえ、プラナの流れるチャンネルと、それらの中枢があります。チャンネルがナディ、中枢がチャクラです。そして、三つの各次元の身体でのチャンネル、中心の間には、密接な相関関係があります。
チャクラは、このような各次元の身体の中心として働くほかに、肉体と微細身、微細身と原因身というように、二つの異なる次元の存在の間を媒介する働きをしています。たとえば、微細身の微細なプラナを、肉体の物理的次元のエネルギーに転換して、肉体に生命力を与えることができます。
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ナディについて
近代、および現代のヨーガの生理学、解剖学の研究者たちは、肉体におけるナディを神経系とみなす人が多いのです。たとえば、ナディは7万2千あるという説、34万もあるという説などがありますが、いずれの説も、それらの無数のナディのうち、重要なものとして10ナディ、14ナディをあげています。
そのうちで、特に重要なのは、スシュムナ、イダ、ピンガラの3つのナディです。研究者たちは、このスシュムナが脊髄神経にあたり、イダ、ピンガラは、脊髄の両側にある交感神経幹にあたるといっています。この説は、一見、正しいように思えるのですが、ウパニシャットや、ヨーガの古典をひもといて、その中のナディについての説明を読むと、どうも、この3つのナディが神経系にあたるとは考えられないのです。
なぜなら、ウパニシャットなどによると、スシュムナは脊髄中心管の内にあって、頭頂ブラフマンの門で開口しているというのです。脊髄中心管の中は、脊髄液が充満しているだけで、脊髄神経そのものではありません。また、脊髄神経が頭頂で開口していて、そこからプラナが出入りするということは、神経については考えられないからです。
けれども、針灸医学でいう督脈は、このヨーガでいうスシュムナと、ぴったり一致する点が多いのです。督脈は、会陰から始まり、頭頂に達し、正中線を通って鼻の下に下りますが、スシュムナと同様に、身体全体をコントロールする陽の気のエネルギーが流れる経絡で、さらに、頭頂の百会(ブラフマンの門にあたる)を通じて、宇宙の気が出入りするのです。このように、スシュムナと督脈には、神経系よりも一致する点が多いのです。
イダ・ピンガラ
イダは膀胱経の左側、ピンガラは膀胱経の右側に対応する
イダとピンガラは、ムーラダーラチャクラ(会陰)の右左から発して、鼻孔の右(ピンガラ)、左(イダ)に終るといわれます。けれども、脊髄の両側にある交感神経幹が、会陰に発して鼻孔の左右に終るなどということは、決してありえません。ところが、中国医学の経絡のうち、脊柱の両側を走る、膀胱経第2行は、会陰の近くを通り、両鼻孔の上端に終るのです。
スシュムナの浄化法
瞑想のアーサナ(坐法)で坐り、手は栂指と人さし指の先を合わせ、他の三本の指は軽く伸ばして膝の上に置き、目を半眼に閉じて息を吸いながら会陰を収縮させつつ、ムーラダーラチャクラにあるクンダリニー(個人のうちにある自然の根元力)を、脊柱内のスシュムナを通して頭頂まで上げ、頭頂のブラフマンの門より抜けて、さらにその力を天なる神のもとへと上げる。そこで息をしばらく止め、神のもとに留まる。次に、会陰をゆるめながら息を吐きつつ、宇宙に遍在する神のみ力を頭頂のブラフマンの門からとり入れて、スシュムナを通してクンダリニーまで下降させることをくり返す行法。
スシュムナの浄化法は、頭頂のサハスラーラを目覚めさせると共に、肉体の束縛を離れ、魂が自由になるための強力な行法とされ、自分にとらわれない自由な境地へ至るためにこの行法があります。
バンドハ
バンドハとは、保持する、固くするという意味であるが、ヨーガでいうバンドハは身体の手足、腹、胸等を一定の形に保持することを言う。例えばジャーランダラ・バンドハは、シッダアーサナをとって、深く息を吸いこみ、止息し、頭を前に倒し、アゴを胸に固くつけ、両腕を延ばして固定し、同時に両肩を前に曲げる。そして意識を喉(ヴィシュダチャクラ)に集める。このように身体を一定の型に保持し、特定のチャクラその他に精神集中することによって、チャクラや特定の神経叢、内分泌腺を刺激し、それを活性化する。
ムドラ
ムドラとは、霊魂やその霊的力を表現する、ある「姿勢」あるいは「印」のことである。
真言密教では「印」を結ぶが、印を結んだ姿勢もムドラの一つである。
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アパーナ
ヨーガでは身体を五つの部分に大きく分け、身体を働かせる生命エネルギーも、身体各部に応じて五つに大別し、五風と呼んでいる。アパーナ(下風)は臍より下の領域に存在し、大腸、腎、膀胱、生殖器、肛門などの働きをコントロールするエネルギーである。
サイ(Psi)のエネルギー
Psiというのは、人間が同時にもっている三つの異なる次元(物理的次元、アストラル次元、カラーナ次元)の心のうち、物理的次元(肉体の次元)の心を除いたアストラル次元(微細身の次元)およびカラーナ次元(原因身の次元)の心を言う。Psiのエネルギーとは、アストラル次元の心のエネルギーあるいはカラーナ次元の心のエネルギーを言い、またアストラル次元の身体あるいはカラーナ次元の身体の中を流れているエネルギーをもPsiエネルギーと言っている,
PK能力
PKは Psycho Kinesis の略称で念力と訳す。アストラル次元、カラーナ次元でスワディスターナ、マニプラ、アナハタ等のチャクラが目覚めると、PK能力、つまり心による物の支配能力が生ずる。アナハタチャクラはPK能力の強力なセンターである。
アストラル・プロジェクション
ヨーガ行その他の宗教的修行を通してアストラル次元でクンダリニーが目覚め、各チャクラを覚まし、遂に頭頂のサハスラーラチャクラより、物理的次元の肉体の外に、アストラル次元の身体(幽体)と魂とが離脱することを言う。 幽体と共に肉体の外に出た魂は、幽体にそなわる感覚能力(=超感覚的能力)によって、周囲にあるものや生じていることを、アストラル次元で超感覚的に知覚したり、働きかけたりすることができる。
観想法
古来から、多くの宗教の行う瞑想法の一つ。想像力によって瞑想の対象についてimage(心像)を心に画き、これに精神を集中し、そのイメージをありありと微細な点まで心に画き、遂にこれと合一、一致してイメージそのものになる行法。想像力はマニプラチャクラに属する心的機能であるから、マニプラチャクラを覚醒させる行法のーつとしてよく用いられる。
軟酥の法
観想法の一種。軟酥の丸薬を頭上に置き、それが体温で次第にとけてその汁が頭皮から脳内にしみこんでゆき、頭から喉、肺、心臓、胃、肝、脾、膵、大腸等身体の各臓器、組織、さらに、手足の隅々先端にまで達し、遂に足の裏に至ると想うものである。二四~五 才の白隠禅師が、知見と行動の分裂に苦しみ、また長年の激しい修業の疲れも重なって、極度の神経衰弱と肺結核に悩まされていたとき、京都の白河の山に行き、そこで白幽仙人 に教わったこの軟酥の法で病気が快癒したことでも、この軟酥の法は有名である。
陰陽関係
中国には古来から、陰陽二元論的宇宙観が存在し、それが、経絡の分類にも及び、経絡は六つの陽経と六つの陰経に二大別される。そして、特定の陽経と陰経の間には密接な機 能上の表裏関係があり、両者のバランスがとれていると、身体は健康となり、いずれかの陰陽の対で陰経か陽経のどちらか片方が実(過剰)あるいは虚(不足)を示すと、もう片方の経絡とかかわりのある臓器にも機能異常、さらに疾病が生じる。経絡の六つの陰陽関係は次のとおりである。
陰経――陽経
肺経――大腸経
牌経――胃経
心経――小腸経
腎経――膀胱経
心包経―三焦経
肝経――胆経
宗教経験の世界
1954年から1961年の10年間に、科学基礎論学会誌、ドイツ、マールブルグ大学、発行のZeitschrift等に発表した宗教経験、催眠現象等についての哲学論文、医学論文を一冊にまとめたもの。ユネスコより哲学部門優良図書に選ばれた。1990年『超感覚的なものとその世界』と改題、改版された(共に宗教心理出版)
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サッチャナンダ
現代のインドのヨーガのグルーで、ビハール州に大きなヨーガアシュラムをつくり、内外から多くの弟子を集めてクンダリニーヨーガの指導を行なっている,早くより著者のチャクラについての科学的研究に深い関心と理解を示し、宗教心理学研究所へも弟子達と来訪された。『密教ヨーガ』の中にはサッチャナンダ師のチャクラの覚醒法が解説してあり、著者はサッチャナンダ師のヨーガビハールスクールの顧問でもある。
呂巌の『太乙金華宗旨』
中国における八人の不老不死の仙人の一人が呂巌(AD755に生れ、8~9世紀にかけて生存)(呂祖師とも呼ばれる)である。太乙金華宗旨は呂巌の創めた金丹教の教への集大成である。この本には、丹田を練り金丹を成就し、遂に真我が覚醒し、身体の束縛を離れて自在になる過程が述べられ、それを達成するための周天法が詳しく説明されている。
エジプトの「死者の書」
エジプトの「死者の書」の起源は、死者の死後の世界における幸せを願って唱える呪文で、口伝されたものらしい。第五王朝、第六王朝(BC2494~1281)に属する9つのピラミッドの玄室や羨道の壁には、死んだ王が安全に彼岸に達するための様々な呪文が刻んである(ピラミッド・テキスト)。
大乗仏教
紀元前一世紀頃から興った仏教内の新しい動きで、龍樹(ナーガルージュナ)によって大成された,現在、南方仏教圈を除いで中国、日本などの漢訳仏教圈、チベット系仏教圏はすべて大乗仏教に属している。大乗とは悟りに向かう大きな乗物の意で、志をもって努力すれば、出家在家を問わず誰でも仏と同じに悟りに達するという教えが、大乗仏教の名の由来である。
竜樹
Nagarjuna(150~250頃)。『中論本頌』その他多くの著書をあらわして、紀元前一世紀頃に始まった大乗仏教の諸教説をまとめ、その基本が諸法の縁起・無自性・空を説く点にあることを明らかにし、大乗仏教の基礎をきずいた。南インドのバラモンの家に生まれたと言われ、当時の外学、小乗、犬乗に精通し、その著述として現存する膨大な著書は、後世仮託されたものを多く含むとはいえ、もっとも重要でしかも疑いないとされる『中論』『空七十論』その他だけでも、その浩澣な巻数、それにもられた高邁な理想、ふかい思索、透徹した論理、つよい実践的態度は驚くべきものであるといわれている。インドでは中観派の祖として、中国、日本ではハ宗九宗の祖として、すべての仏教徒から非常に尊崇された。
無量光
禅や、ヨガ行を通じて心が進化成長して、カルマをこえた一つの解脱の境に入る時、太 陽が何千も一度に輝いたかのような無限、無量の光に出会い光に包まれ、光と一になる体験をうる。この無量の光を、仏教では無量光仏(アミダ仏=Amitabha)として崇める。龍樹菩薩も三昧に入る前にこの無量光(無量寿光)を念じ、三昧に入ってこの無量光に出会い、合一したようである。
リードビーター
Leadbeater,Charles Webster「(1849~1934)。1883年、イギリス国教会の牧師補の仕事に励むかたわら神智学協会に入会し、翌84年、聖職を捨ててインドに赴き、ヨーガ行に励んでチャクラの目覚めを体験した。1934年、86才で没するまでに約30冊ほどの著作を行なった,本書に引用されているのは、彼が80才の時に著した『チャクラ』(The Chakras)である。
ヴェーダ
インド・アーリヤ人の古聖典の総称。「ヴェーダ」は本来「知識」の意味をもつ語であるが、才能ゆたかな詩人たちが神の啓示を身をもって感じ、それをもとに制作された聖典(天啓聖典)とされている。各ヴェーダの成立年代は確実なことは不明であるが、紀元前1500年~1000年ごろまでに作成され、紀元前600年以前に今に伝わる形に編集され、口伝によって伝えられたと言われている。
ウパニシャッド
各ヴェーダは一般に、①サンヒター(本集)、②プラーフマナ(祭儀書)、③アーラニヤカ(森林書)、④ウパニシャッド(奥義書)の四部よりなる。ウパニシャッドは「ヴェーダンタ」(ヴェーダの末尾)とも呼ばれ、いわゆる「梵我一如」の哲学説が顕著である。
パタンジャリ
ヨーガの根本聖典の一つである『ヨーガ・スートラ』は、BC2世紀頃生存していた文 法家パタンジャリによって書かれたと一般に言われている。しかしヨーガ・スートラの内容はBC2世紀からAD5世紀頃迄の500~600年間にまたがっており、一人の人間が編集作成したと考えることはできない。多くの年代と多くの人々によって伝えられたものが、紀元5~6世紀頃に集大成されたものがヨーガ・スートラであり、それが口伝によって、編集がパタンジャリであると言われているのであろう。
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サンキャ哲学
いわゆるインド六派哲学の一つ。中世インドで最も有力であり、史詩、法典、文学、医学書などに大きな影響を与えた。人生は苦であるとの考えに立ち、純粋精神(プルシャ)と物質の二元論の立場から、現象世界と、そこにおける人間存在の成立、苦からの脱却を説明している。
グルー(Guru)
もとの意味は「重要な人」という意味であるが、現在ではヨーガの師匠の意味に理解されている。ヨーガの実習に当たってはグルーの指導を受けるべきであると、古代の本に書かれている。
唯識説
仏教は当初から唯心論傾向が強かったが、その傾向が特に強められ、ヨーガの実修を基盤におくユガ行派によって纏められたものが、大乗仏教の唯識説である。あらゆる事物は心が作り出した影像にすぎず、あらゆる存在を生みだす根本識をアラヤ識という。
カルマ
カルマとは、サンスクリットの「クリ」(働く)という言葉から出たもので、次の三つの意味に用いられる。
(1) ある結果を生む原因となった「働き」、「行為」
(2) その働き、行為が原因となってあらわれた「結果」
(3) 「働き」と「結果」の間の「因果関係」
すなわちカルマとは、前生での行為の結果が今生である形をとってあらわれる際の
(1) 前生での行ない
(2) 前生での行ないの結果としてあらわれてきた今生でのあり方
(3) (1)と(2)との関係
を意味する。因縁。あるいは業。
超作
「超作」という言葉は、インドに「マハーバーラータ」という、三千年ぐらい前から伝わっている大きな叙事詩があって、その中の一編が「パガバッド・ギータ」ですが、この「バガバッド・ギータ」の中に「超作」に当たる言葉が出てきます。
「バガバッド・ギータ」は今のクリシュナ教とかヨーガなどの一つの原典、聖典の一つになっていて、ヒンズー教とか仏教とかを超えて、インドではこの「パガバッド・ギータ」を座右に置いてくり返し読んで、その教えを非常に忠実に守っている人が多い。「バガバッド」とは「聖なるもの」、「ギータ」とは「聖なる人による聖なる教え」という意味なのです。その中に“naiskrmya”という言葉がある(第一編第三章四)。これを辻直四郎氏は「超作」と訳して、「善悪・利害を超越した行作、すなわちカルマヨーガに基づく行作」と註を付けておられます。
こういう言葉が三千年程前からあることはあるのですが、私がお話しする「超作」は、言葉は似ているが中身はかなり違うように思います。
行為をする時にはその行為の結果にとらわれる。しかし行為という因と結果という果(因果)にとらわれている間は、いつまでたってもカルマを超えた解脱の世界には達することはできない、というのが超作の本来の意味なのです。
結果にとらわれないでその行為だけをすれば、その時、結果にとらわれる自分というものから離れることができる。行為の結果を求めている自分から離れることができれば、小さな自分を否定し、それを破って高い状態に達することができるというのが、本来の「バガバッド・ギータ」で言っている超作の教えなのです。
或る行為をする場合、結果を求めない行為というのは勿論無い。だから結果を求めて行為をするけれども、行為をする時に、その結果がどうであるかということを忘れてしまう程に行為そのものになりきるということです。いつも何かを気にしながら行為をするのでなくて、行為そのものになりきると、その時には自然に、行為の結果を求めて行為している自分というのは消えてなくなる。これが一つ。
もう一つは行為をする前に、自分がこの行為をすることによって少しでも他の人が助かるように、あるいは他の人に役に立つようにと念じるということなのです。
「超作」の基になるもの―愛と智恵と社会性―
くり返すと、超作とは、まず、行為をする時に、結果だけが基準になって行為をするのではなくて、行為をする時には、もう夢中になって行為をする。結果を求めている自分を忘れてしまう程に夢中になる。するとその夢中になった時に自己否定が起きる。そして、より高い状態、より高い次元に進んで行ける準備ができるということです。
それともう一つは、行為の動機が、その行為の結果生じたものが人の役に立つようにということ、それを念じるということです。
こういう超作においては、人の役に立つようなものを作る、あるいは行為をするということ、つまり「愛」が一つの基盤になっている。
それから、目指しているものが完全にできるようにするには智恵が要る。愛とか智恵というものが超作の根底にあるのです。
そして人を助ける、人の役に立つということが一つの目標になって行為をする時には、そこに自ずから社会性というのができてくると思うのです。
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