勝木 元也

島園 進

ホアン・マシア

村上 和雄

本山 博

第27回 IARP年次大会講 師 インタビュー(IARPマンスリーより)

島園 進先生

医学から宗教学へ

―人生の真実を現実の生活の中から考えるー

 私は医学部をめざして、東大の理科Ⅲ類に入ったのですが、当時は大学紛争やベトナム戦争があり、社会がどんどん変わっていくというときでした。そういう中で苦しんでいる仲間がいたし、自殺してしまうような人もいたりして、世の中のいろんな問題に、何か取り組みながらやれるようなことと、人生の支えになるというものを自分の中でしっかり掴みたいということがありましたね。それからもう一つは書物の学問というのは何か向いてない、要するに、デスクワークで辞書と首っ引きで難しい本を読んでも、人生の真実から遠のくばかりなのではないか、現実に近い、生活に近いところでものを考えたい、というのがあって宗教学に進んだのです。
当時は特にどこの宗教に興味があるということではなく、庶民の伝統的な生活の中の宗教に関心がありました。

 そのころ高橋和巳の『邪宗門』という、大本教という団体の、社会変革運動について書かれた本があったのですが、政治的イデオロギーからではなく、宗教に基づいて運動を起こすというものに非常に魅力を感じました。その当時過激派が、内ゲバを起こしたり、政治運動が何か観念的になってしまって現実離れしているために、悲惨なことを起こすということを見て、民衆の知恵が大事だと思うようになったわけですね。民俗学にもそういうことで関心があったし、そんな時に、東大の大学院で北海道常呂地域の宗教の調査を始めるということで、現地に赴き、そこの宗教団体の人に触れる機会があったのも、新宗教を研究する一つのきっかけとなりました。

 ですから、哲学者が理論的に見つけた真理というものと、生活者というか民衆が生活の中で築き上げた真実とは比べられないというか、むしろ本当に重いのは後の方なのではないかという考え方をしたのですね。理論で考えるというのはそれだけである種の力を持つことなので、現実離れしていると同時に、少し間違った力なのではないのだろうかと、そういう正しい真理に近づくということが、力を持って人を支配することにも通じるわけで、そうではない真実、人が生きることの大事なポイントにあたるようなものをどうやったらつかめるのか、そういうのを宗教者の中に求められるのではないか、と思ったのですね。

 例えば、何かに苦しむときは皆同じだという考え方にすごく興味を持ったのですね。これは、父が精神科医をしていて、患者さんのために何かしたいというようなことを言っていたこととつながっていると思いますが、一人の人が苦しんでいれば、それはどんなに偉いことを言ったってその苦しんでいる人を助けるのに意味がある。それは考えてみると宗教に通じる、宗教の中に誰でも仏性を持っているとかね、日本で言えば大乗仏教の伝統につながっているのではないかと思うのです。

宗教が生命科学にアプローチする

誰でも、自分の命も勿論大切なのですが、他の人の命も大切だという感覚も持っていますよね。それは生命について何か研究するとか、利用するときの基準となる感覚・価値観だと思うのです。ところが自分なりにこれはしてはいけないと思っていても、それをハッキリ理論にしたりルールにしたりということは普通はやっていない。そういう大事だと思っていることを組織的に主張してきたのは、あるいはコード化してきたのは宗教なので、宗教の意見は参考になると思うのです。一人一人の人が毎日生きる上で、こういう生き方がいいのではないかということを宗教は提案しているわけですよね。とすれば科学に対しても、やはりいのちというのはこういうものだから、科学にもこういう限界があるのではないか、積極的に関与していく必要もあると思います。ただしこれはどんどん世界が変わっているということを考えなければいけない。昔にこういわれていたからということだけを基準にすることはできないと思います。宗教は昔から蓄えてきた智恵を、あるいはいのちに対しての感じ方を、今の社会に生かしたらどうなのか、ということを考える材料を持っていると思うのですね。

 生命倫理は一人一人の問題

 勿論専門的な知識は必要なのですが、つまり結局これはみんな自分のことなのですね、臓器を人にあげるというのも貰うというのも。科学的な研究は専門家しかできないわけですが、宗教から何かそういう問題に発言するという時も、皆で考えるという機運をつくる、そういうことに貢献することが大切だと思うのです。例えば、ローマ法王庁が答えを出せば皆安心して考えるのを止めるというのではなくて、あるいは専門家に任せて自分たちの宗教はこうですと統一見解を出したということを誇るというより、皆に考える材料を提供して、同じ教団の中でもいろんな考え方がありますと、そういうのでいいのではないかと思います。

 卵子と精子とが合体した受精卵は、遺伝子が混じるところで、全く予想できないことが起こるわけですが、クローンだと予想できてしまうわけですね。こういう遺伝子の人にするということも、こういう病気のある人は生まないようにということができるようになると思いますが、これも非常に問題ですよね。そういう人間の、今までは神の計らい、何かわからないけれども「恵まれる」ということとして、いのちを受け止めていたのに、意図的にそれを人間が作るというとどこか物扱いすると思いますし、人為的になってくるわけですよね。親子の中にはそういう人為を越えた神の計らいというか、何か人を越えたところからの恵みというか、そういうことがあると思うのですが。

 例えば、「万能細胞」と呼ばれるES細胞(人胚性幹細胞)は、無限の増殖力をもち、様々な人体組織に発展していくことができ、もしかしたら人にまでなってしまうものなのですね。しかし生命科学の感覚でいうと実験室の中で、シャーレに入っているとこれはもう何をやってもいいという。それは間違っている。それから、妊娠中絶で死んだ胎児の細胞というのは、ものすごく利用効果があるわけです。そういうこと一つ一つが、身体を資源化する。ということは人間を物扱いすることに近づいていく。その辺を今までの医学では、あまり考えてきていません。

 また、将来的にクローン技術とES細胞を組み合わせると、自分の臓器の取り替えが出来るようになるわけですよね。それも免疫拒絶反応のない自分の遺伝子を持った臓器を外へ作ることが出来る。要するに自分のコピーみたいなものを、自分の身体の外で作ることが出来る。そういうことをすれば長生きできるに決まっている。しかしそういうことを我々はしたいのか、ということを考える必要はあると思うのです。子供が生まれないということは本当に病気でしょうか。不妊症と言うけれども、六十歳の人に子供が生まれないというのは病気ですかね。そういうことを、私はいのちを軽んじることであり、何か先ほどの「恵まれる」という感覚を薄くすることであり、生き甲斐を減らすことにつながるのではないかと思っているのです。

 今エイズの薬は特効薬が出来ていますが、後進国では値段が高くてほとんど使えない。どうしてそうなのかというと、特許をたくさんつけて、製薬会社が高い薬を作るからですね。いくらでも長生きできる技術、その一方で全く医療の恩恵が行き渡らない世界という、そういう差別がどんどん広がっていく。何となく人間が物化される、奴隷化される社会という気がしてしまうのです。

いのちと物の境界線は引けない

 人のいのちに手を触れるのは非常に大きな問題ですが、ここからこっちはいのち、こっちはいのちでない物、というわけにいかなくて、段階がある、グラデーションがあるということだと思います。今実験動物についてもいろいろなルールがありますが、人のいのちは大事にするけれども、人のいのちじゃないものは、というようにどこかで線が引けるというふうにはなかなかいかない。

 たとえばカトリックの理論である、受精卵になったところで霊魂は入ってくるのだというと、その前の卵子や精子は何をやってもいいのだということになる。しかし卵子というのはそこに体細胞を埋めればクローンが出来てしまうというぐらい、いのちの元なのですよね。まだただ合体しただけの段階ではいくらでも流産するし、とても人間の形なんかしていない細胞の塊だから、これはまだ人格になっていないということで、人のいのちではないというわけで線引きをするわけです。線引きというのは何かすごく人為的で、カトリックは受精の時だと、イスラム教では受精後何十日以降だとかね、そういう話になると「いのちの始まりはいつか」という理論は非常に信用しにくいものになってしまう。ですから霊魂が入った、入らない、そして大事にすべきいのちと、そうではない物をハッキリ分けるというのは、教義上はそうなのかもしれないし理論的には分かりやすいけれども、現実に合っていないのではないかと思うのです。

いのちの感受性を問う

良い医療とはどういうことなのか、科学の発展ということにどういう考え方をするかという問題なのですけれども、しかしそれは科学技術の恩恵に浴している我々が、どういう生活が幸せと考えるか、どういう社会が人間らしい社会と考えるか、そういう問題とつながっていると思うのですね。生命倫理の問題というのだけれども、ある意味では社会のあり方についてのビジョンの問題なのです。そういう問題として自分も受益者となると共に責任も生じてくるし、ものすごい被害者になるかもしれない。そういういろいろな可能性があることなので、是非、少しでも身近な事柄として考えて頂けたらと思います。

 科学でも間に合わない、教義体系としての宗教でも間に合わない、そこに人が感じているいのちのリアリティの大きなものがあるので、これはスピリチュアリティといっていいようなことだと思います。そういうものを否定できないからまるっきり宗教的なものがない、頭を下げないお葬式ってできない。唯物論といってもそうしない。ということは何かこの領域があるからなのですね。これまで、臓器移植について様々な論議が行なわれてきましたが、今、もっと大きな変化が起ころうとしています。臓器作りが起ころうとしているのです。そのことに今度は広げて考えなければならないところに来ているのです。臓器移植を考える時、脳死を人の死としていいかどうか、自分の臓器を人のために使っていいかどうかということは、それぞれの人がいのちというものをどう考えているか、ということとつながっていたわけですが、今度は生まれてくる人間を利用していいかどうか、そういう話になっているのです。遺伝子の組み換えで人を作り替えるというのは許されるのかどうか、どこまでどういう場合なら許されるのか、問われているのです。

私の考えではこうです。宗教はいろいろあるけれども、その宗教の基礎になる部分というのは、いのちの感受性、スピリチュアリティと言ってもいいし、あるいは畏れの念、慎みの感情とか、人のいのちに対する共鳴の情とか、あらゆるいのちと感じ合うことのできる人間のもつ能力だと思うのです。宗教は、人間生活に基本的に必要な価値観というか、感受性というか、そういうものを大事にしていると思うのですね。例えば愛といってみたり、感謝といってみたり、慎みの念といってみたり、畏れの感情といってみたり、いろいろな形もあると思います。ところが科学の中にはそういうのを強いて無視するというところがある。しかし、人間にはそういう大きな領域、人間の生活を人間らしくしている、そして大事な良きものを保っている感情の秩序、あるいはそういう礼節といったものがたくさんあるわけですね。そこから考えていかなければならないと思います。 

(了) 


-講師インタビュー(ホアン・マシア先生)-

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