「霊操」との出会い
私はスペインの南東、地中海に近いムルシア(Murcia)という町で生まれました。カトリックを信仰する家庭に生まれ、幼児洗礼を受けました。後にイエズス会に行くことになるのですが、スペインは、イエズス会の創立者イグナチオ・デ・ロヨラの生誕の地でもあります。イグナチオ・ロヨラは『霊操』という新しい修行法と祈りの道を、生涯をかけて書きました。それがイエズス会の発端になるのですが、「霊操」を私は「黙想の手引き」と自己流に訳しています。
私が高校生のころ、休みの時はイエズス会の司祭の指導のもとで瞑想をする機会がありました。その体験が後にイエズス会に入るきっかけとなったのです。思春期にいろいろなものを疑問に思ったり、考えたり、悩んだり、それが人間の成長段階の一つだと思うのですが、ちょうどその時期に聖書の勉強を深めたりとか、黙想の機会を与えられたことは、自分の成長のためにとても役に立つことであったと思います。たとえば日本でいえば、坐禅をするとか精神を養うとか、自分の成長の時期にそういう力を入れることは深い意味があると思います。
聖書について短い講話を聞いてその後に、沈黙のうちに瞑想をするという、やはり神様に出会うということは自分に出会うということですからね。またこの頃は、自分のこれからの進路というものを決める時でした。私にとって「霊操」との出会いは非常に意義深いものであるのです。
文化の違いを乗り越えた対話
日本で最初に派遣されたのは鎌倉でした。そのころ鎌倉に「日本研究センター」があり、そこで二年間を過ごしました。その日本語研究所の二年生のとき、先生から和辻哲郎の『風土』を読むように勧められ、それが後にスペイン語に訳すきっかけになりました。数年経ってちょうど上智大学で教え始めるころでしたでしょうか。湯浅泰雄先生から和辻の倫理学について教えていただく機会にも恵まれました。そのころスペインの哲学者ミゲル・デ・ウナムーノの著作集が日本語に訳される頃であって、私もそれに携わったのですが、それがきっかけで、日本とスペイン、東洋と西洋、東西文化の問題に非常に関心が強くなり、ずいぶん「文化」について考えさせられることになりましたね。今でも和辻の非常に印象的なところで、特に日本の伝統に根ざした自然観や生命観から学ぶところがあると思います。それで今でも私の生命倫理の授業でよく話題にするのです。
和辻は日本の庭園とヨーロッパの、たとえばヴェルサイユ宮の庭園とを比べて説明しているのですね。一見すると、日本の庭園はヴェルサイユの庭に見られるような幾何学的デザインとは違い、西洋は合理的で、日本は合理的でないというふうに思われがちですが、和辻はそうではないと言うのですね。それが私には非常に印象的だったのです。なぜかというと、自然のままに放っておけば雑草がはびこり、木々の枝が伸び放題になってしまって庭でなくなるから、日本の庭は相当手を入れなければいけないのですね。つまり、日本の庭は自然そのものでなくて、また自然を壊すような手の入れ方ではなくて、自然に合わせて手を加える。それはちょうど今、生命倫理で必要とされている自然と人為的なものとの調和なのです。ですから、そこから学べば、今、医療技術などの問題で、手を入れてはいけないのではなくて、自然に合わせて自然を大事にするような形で手を入れるようにできれば、随分素晴らしいものができるのではないかと思います。
考えてみれば、哲学の中でいえば、私はますます抽象的なものから具体的なものへ降りてきたわけですね。哲学を始めたころは随分言語哲学に凝っていました。けれども、日本に来てから「文化」を考えなければならない必要性を強く感じるようになりました。つまり、様々な文化の違いを理解し、それを生かす対話が大切であるということを実感したのです。
より大きな意味での「いのち」
ひらがなの「いのち」というのはとても深い意味があると思うのですね。この言葉には、万葉集まで遡る伝統があると、日本人の先生方から伺いました。考えてみれば、英語のライフ(life)を日本語に訳すと生命、生活、人生、寿命といろいろあるわけですね。ライフの訳語を注意することによって、ライフに関する見方が広くなっていきますが、そこでとどまらないで、もうひとつの観点が必要だと思います。それは、仏教、キリスト教、神道、イスラム教など、どの宗教においても「より大きな意味でのいのち」について語っていますね。全てを包むいのち、とか、私たちがそれによって生かされているいのち、とか、永遠のいのち、というような言葉が用いられているのですね。そういう大きな観点を付け加えないで、生命について何か語っても物足りないのではないかと、この大きな意味でのいのちを踏まえた、生と死を見つめるもっと深い見方が必要になるのではないかと思います。
大きないのち、それは私たちが生かされて生きている大きな何ものか、神と呼ぶのか仏と呼ぶのかは別としまして、その大きな何ものかによって生かされているという、それとのつながりで、初めて人間のいのちなり魂なり心なりを語れるのではないかと思います。そこに宗教側からの貢献があるのではないかと思います。たとえば生命倫理では、いのちの始まりとか終わりについてのたくさんの問題がありますね。そこでただ技術的にどういう生殖技術ができたとか、あるいはどういう延命治療があるとか、その話だけにとどまっていて、一体人間にとって生まれるとは、死ぬとは、を問わなければ何か物足りないということですね。
しかし、人間とは何かという問いに対する答えは私たちが人間の計らいで組み立てる、理屈で答えられるものではなくて、逆に受け身となってその答えが与えられる、そういう切り替えから宗教は始まるのではないかと思います。
リアリティーにおける真実
倫理を車にたとえると、ブレーキをかけるのが倫理、いや倫理なんかいらないと思う人はアクセルを踏むでしょう。そこで、両極端な態度、すなわち「ブレーキとアクセル」しかないような車ではなくて、「ギアとハンドル」の操作にたとえられる倫理が求められると思います。科学に対する歯止めをかけるために宗教があるのではなくて、科学と宗教が手を携えて、人類の未来に向かって考える必要があると思うのです。
私は宗教と科学の対立は考えていないのですね。リアリティーに対する畏敬の念、この点で私は宗教と科学は非常に近いはずだと思います。それに対して、イデオロギー化された科学と、原理絶対化された宗教、この二つが敵となるのです。一九世紀にあったような科学と宗教の極端な対立ではなくて、リアリティー 生きているもの、その現実に対して、科学者も宗教者も謙虚になって、それに対する畏敬の念と感謝と責任を持たなくてはならないと思うのです。ですから科学者だったら、いのちの中に組み込まれている何かを無責任に操りたくないという責任があるのですね。そして宗教からみれば、いのちに対する感謝と責任ですね。それが非常に大切だと私は捉えているのです。
科学は科学の領域を超える何かを自己正当化する、宗教はあたかも神様のことを全て説明できるかのような、非常に複雑な教義を述べて、まるで自分が神様のことをコントロールしているような、この両者の態度が問題になると思うのです。ですから、宗教も科学も自分の領域を超えて奢ってしまって何かコントロールしようとすると、人間の計らいで何かを強調しすぎると道から外れてしまうのです。
自ら考え自らが責任をもつ
生命倫理問題を考えるとき、その基本にあることは、良心の下に責任を持って判断しなければならない、自分で苦労して自分で考えて判断しなければならない、ということだと思います。その判断力をもっているのが人間ですね。ですから自分で考えないで、ただ決まった答えに従うというのではなくて、考えて判断するのにあたって「大きなものさし」が必要になってきます。その「大きなものさし」は宗教から示されると思います。そして判断するために様々な角度からの正確なデータが必要となります。さらにまた人の助けも大切ですね。
けれども、最終的には自分で判断するのです。人は良心の責任のもとで自分でよく考えてそして判断しなければなりません。ですから、倫理はボタンを押したら回答が出てくる自動販売機のようなものではなくて、苦労して確かさと不確かさの中を探していかなければならないのです。でもそれをすると不安だから、やはり心理的な問題で、そこから逃げて固い立場をとってイデオロギー化し、自分を守るようなことがおきてくるのです。
しかしこれは、何か言われたことについて考えることなく、ただ言われたとおりにするという、考えることを育てない教育制度の問題を引きずっているのですね。そういう教育制度を変えないと倫理はあまり見込みがないと思うのです。ですから、私は大学の授業で、自分で考えて責任を持って判断する態度を育てたいと思っています。学生自らに考えさせたいのです。
私は母の死を通じて、いのち、心、魂、そういうものが全部直感的につながったような体験を持ちました。私はそのような体験一つを持ったら、いろいろな難しい生命倫理の話よりも実感できると思うのです。私は毎年学生に生命倫理の講義をしていますが、彼らに言うのです。あなたがたが数年経ったら、親愛なる人の亡くなる時、あるいは自分のこどもが生まれる時、あるいは長い間病床にいる大切な人の看病に立ち会うことがでてくるでしょう。そういう経験をもって初めていろんなことがわかるでしょう。そういうような体験なしに、難しい生命倫理の話を聞いてもぴんとこないに決まっているのですね。
宗教における「体験」と「識別」の重要性
高校生の時に、「霊操」に出会って瞑想体験を持った、そこに私の宗教的なリアリティーに対する体験があります。そこに原点があると思うのです。あくまでもそこに立ち帰らなければならない、言葉で話したり説明したりということは後からなのですね。先に体験があって、その後で歴史の中で体系化が行われるけれども、体系化の試みは虚しいですね。奢ってしまって、自分が自分を超える何ものかをコントロールしてしまうようなことになると、人間はそれを抹殺するようになってしまうのです。ですから科学者と宗教者は一番「おごるなかれ」ということを感じているのではないでしょうか。
最近、仏教の『大乗起信論』を読んでいますが、キリスト教以外のいろいろな宗教を勉強してきた中で、全ての宗教の基本にあるところ、言葉のレベルでは仏教は仏教の伝統とか、キリスト教はキリスト教の伝統でいろいろ違うのですが、その基本的なところ、すなわち、沈黙のうちに聞こえる、自分を超える何ものかの声に耳を傾ける点において共通していると思います。カトリックは瞑想の伝統をとても大切にしています。祈りというのは、ただ神様にお願いするということだけでなく、神様の御旨を聞くとか感謝するといった、神様との対話が大切なのだと思います。そして、狂信的になってそこに落ちないために、「霊操」では「体験」と「識別」というキーワードを示しています。体験があってそれが本物かどうかわきまえる、識別する。そして自分の計らいに終わってしまわないように体験に戻る、いつもこの両方が必要なのです。
宗教は、歴史の中において、宗教心を裏切ってしまって宗教の名によって間違ったことを繰り返してきました。これをまず認めなくては、そして謝罪しなければなりません。どの宗教でも「私は絶対を持っている」ではなくて、「絶対的な何ものかが私を持っている、私を支えている」のです。
(了)
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